「そういうおまえだって、化物のひとりじゃないか」
守衛のいいたかったのはそれだったのだろう。
そのとき二階でバターンとドアのしまる音がしたので、二人は弾はじかれたように天井
を視みたが、すぐ気がついたように視線をそらすと、それきり誰も口を利きかない。
直記はせっせと爪を磨いている。守衛は食卓に頰ほお杖づえをついて、しきりに煙草を
吹かしている。だが、そういうさりげない姿勢のうちに、ふたりとも全身全霊をもって、
二階の気配をうかがっているのである。その二階では、さっきドアの締まる音がしたき
り、あとはコトリとも物音がしない。
むろん、これだけの建物だし、二階と階下とはなれているのだから、ドアをしめてしま
えば、ふつうの話声や物音では、きこえないのが当然なのだが、それにも拘かかわらず、
その静けさが、息苦しいほどふたりの心を搔かきみだすのである。直記の爪磨きはしだい
に急ピッチになって来るし、守衛のふかす煙草の煙は、だんだん小刻みになって来る。
私にはそういう二人の様子を見まもっているのがたいへん面白かった。態ざまア見
ろ!……そういってわらってやりたいくらいだった。だが、それと同時に私自身、しだい
にじりじりして来る気持ちを、どうしようもなかった。いつの間にやら私自身、全身を耳
にして二階の気配をうかがっているのである。
二分、三分、五分。──
三人の男の瞋しん恚いのほむらがこって、あたりの空気がしだいに濃度をまして来るよ
うに思われる。私はあまりの息苦しさに、何か大声を出して叫びたくなったが、するとそ
のとき突然、直記が椅子をけって立ち上がった。
「寅とらさん、話がある。ちょっとおれの部屋まで来てくれ」
守衛もビクッと椅子から腰をうかせる。
直記は、しかし、それに眼もくれず、大おお股またに食堂を出ていくと、はや、階段に
足をかけている。
「屋代、何をグズグズしているんだ。早く来ないか」
まるで飼犬でも呼ぶような調子である。さすがに私はためらったが、するとそのとき守
衛のやつが、私たちの顔を見くらべながら、ニヤリとわらってこんなことをいった。
「屋代君、早くいきたまえ、グズグズしてると旦だん那なをしくじるぜ」
そのときくらい私は屈辱をかんじたことはない。いくどもいうように、私は直記の横柄
さにはなれっこになっている。かれはときどき、私をまるで犬か猫かのように扱うことが
あるが、それでも私は平気である。しかし、守衛のような不具者にまで馬鹿にされるかと
思うと、一瞬、私は全身がもえるように熱くなるのをかんじた。一寸の虫にも五分の魂で
ある。相手がもしあわれな佝僂でなかったら、私はぶんなぐってやった所だ。
守衛はそういう私の顔色に気がついたのか、いささかおそれをなした態ていで、ヘタヘ
タと椅子のなかにくずれてしまった。私はそれを尻しり眼めにかけて食堂を出ていった。
階段の下では直記がむずかしい顔色をして待っていたが、私をみるとすぐくるりと背をむ
けて、スタスタと上へあがっていった。私がむろん、よたよたとそのあとからついていっ
たことはいうまでもないが、正直のところ、そのとき私はかなり酔うていたのである。階
段をあがるにも、はあはあと息切れがするくらいだった。だから、やっと階段をあがり
きったところで、いきなり誰かにぶつかったときには、危うく足を踏みはずして、真っさ
かさまに下へころげおちるところだった。
「あっ、御免なさい!」
これまた危うくころげおちるところを、やっと壁に身をもたせて、辛かろうじてからだ
の平衡をたもっているのは八千代さんだった。
見ると八千代さんは髪ふりみだし、真まっ蒼さおになって息を弾はずませている。それ
ばかりではなく、イヴニングの肩から胸へかけて大きく裂けて、むっちりとした乳房がの
ぞいている。私ははっとして、思わず眼をそらせた。