「八っちゃん、どうしたのだ、行儀の悪い!」
階段のうえから直記がきびしい声でたしなめた。
「ううん、何でもないの。蜂屋のやつが酔っぱらって……」
それだけいうと八千代さんは、イヴニングの肩をたくしあげながら、私のそばを駆け抜
けるように階下へおりていった。すれちがうとき、ふと見ると、イヴニングの下からのぞ
いている肩に、なまなましいみみず脹ばれがひとすじ走っているのが眼にうつった。
直記と私はしばらく顔を見合わせていたが、やがて直記がそっぽを向くと、物もいわず
に歩き出したので、私も無言のままそのあとについていった。
蜂屋の部屋は階段をあがったところから三つ目の部屋である。通りすがりに見ると、
ぴったりしまったドアのすきから、かすかに灯ひの色がもれていたが、中からはコトリと
も物音はきこえなかった。
直記の部屋はそこを通りすぎて、廊下を曲がった角にある。私たちが入っていくと直記
は用心ぶかくドアをしめた。
「まあ、掛けたまえ」
「うん」
私たちはめいめい勝手なところに腰をおろすと、煙草を出して火をつけた。そしてしば
らく無言のままで、煙の行方を視つめていたが、やがてたまらなくなって、私のほうから
口を切った。
「仙石、話というのはなんだね」
「ふむ、実は……」
と、直記はそれでもしばらくためらっているふうであったが、やがて思いきったよう
に、煙草の吸すい殼がらを灰皿へつっこむと、立ち上がってベッドの下へ手をつっこん
だ。
「話というのはこのことだがね」
そういいながら、ベッドの下から取り出したのは、昼間四よ方も太たからとりあげた日
本刀である。私は思わずギョッとして、直記の顔を見直した。直記はひきつったようなわ
らい顔をしながら、
「屋代、こんなことをいうと君はわらうかも知れん。わらいたければいくらでもわらえ。
しかし、とにかく、おれは何んだか怖おそろしくてたまらないのだ。心配でたまらないの
だ。なあに、守衛や蜂屋のことじゃない。あいつらはたかがさかりのついた犬みたいなも
のだ。八千代をとりまいて、キャンキャンわめきたてているだけのことなのさ。おれが怖
こわいというのはそれじゃない、これだ、この刀だ。こいつは無銘だが、昔から村正だと
いう評判がある」
私は急におかしくなって吹き出しそうになった。しかし、直記の蒼あお白じろんだ顔を
見るとすぐに笑いもひっこんでしまった。いや、それのみならず、直記のような高等教育
をうけた人物が、真剣になって講談まがいの村正の怪談を持ち出すところに、何んともい
えぬ深刻な恐怖がかんじられて来るのだった。
「おやじがこの刀をおそれているのもそのためなのだ。おやじは自分で自分の酒乱を知っ
ている。ちかごろはお柳さまとの仲がうまくいっていないから、いらいらして、いっそう
酒乱が昂こうじ気味になっている。いつかそういう酒乱の際、この刀で誰かを斬きり殺す
のではなかろうかと、おやじはそれをおそれているのだ。つまり、自分で自分が信用出来
ないのだね。だから、ちかごろではつとめて自分をおさえ酒の量もなるべく過ごさぬよう
にしているのだが、しかし、それでもまだ不安だったのか、おれにこの刀を、どこか自分
の眼につかぬところへ隠しておいてくれるように頼んだのだ。そこでおれはおやじにいわ
れたとおり、この刀を隠してしまったのだ。それだのに……それだのに、どうしてこの刀
がきょう、向こうの座敷の押入の中にあったのだ」
なるほど、話をきくと妙だ。直記の語るところによると、仙石鉄之進という人は酒乱が
昂じて来ると、渇したものが水を求めるように、この村正を求めるのだそうだ。押入の中
へ日本刀を持ち出したやつは、それを知っているにちがいない。つまり、この村正によっ
て、鉄之進を誘惑し、かれによってこの古神家に大惨劇の起こることを期待しているにち
がいない──と、直記はこういうのである。