「屋代、おまえも眠れないのかい」
「うん、煙草が吸いたくなってね。もう何時ごろかしら」
「待て待て」
直記はライターをつけて枕もとの時計を見ていたが、
「ちょうど一時だ」
「どうだ、起きて少し頭を冷やそうじゃないか。お互いに妙に昂こう奮ふんしているんだ
よ、とてもこのままじゃ眠れやしない」
「うん、それもよかろう」
直記はベッドからおりると窓を開いた。外は美しい月夜である。気がつくときょうは満
月であった。私たちは窓ぎわに椅い子すをひきよせて、無言のまま煙草をくゆらせてい
た。
この窓は屋敷の後方へ向かってひらいているので、向こうに湧ゆう水すい池を抱いた森
が見える。そしてその森のこちらがわに小さな洋館がちらほらと、木の間がくれに見えて
いる。私はふと、今日昼間蜂屋からきいた話を思い出したので、少しからだを乗り出した
が、そのとたん、思わずあっと低い叫びをあげた。
「ど、どうしたんだ」
「誰かあんなところを歩いている!」
「なに」
直記も驚いたようにからだを乗り出したが、私の眼をとらえたその人影は、すぐ木の間
がくれに見えなくなった。
「誰もいやあしないじゃないか」
「待っていたまえ。また出て来るかも知れんよ。あっ、ほら、あそこへやって来た」
いったん、木の間にかくれた影は、すぐまた月光のなかにとび出して来た。そして飄ひ
よう々ひようと、雲のうえを歩むような足どりでこちらの方へちかづいて来る。その姿が
窓から斜向こうにさしかかったとき、私は思わず息を弾はずませた。
「八千代さんだね」
「ふむ、病気が出たのだ。夜歩く……」
直記の声はおしつぶしたようにしゃがれている。ぎゅっと私の手を握った掌が、気味悪
いほど汗にぬれて、ブルブルと痙けい攣れんするようにふるえている。
八千代さんは相変わらず、飄々と雲のうえを踏むような足どりで歩いていく。パジャマ
だろう、真っ白な衣い裳しようを身にまとうて、髪を肩のうえに垂らしている。少しうえ
向き加減に顎あごをそらしたその全身に、白銀のような月光が降りそそいでいる。
「八千代さん、どこへいっていたのだろう。向こうの洋館から出て来たようだが……」
そのとたん、直記はピシャリと音を立てて窓をしめた。
「屋代、もう寝よう」
暗がりの中だったけれど、直記の不機嫌がはっきりわかった。
「どうせ夢遊病者のことだ。どこへ行くって当てがあるもんか。しかし、屋代、今夜のこ
とは誰にもいわないでくれ。八千代のやつが可哀そうだから」
直記はベッドへもぐりこんで、それきり口を利きかなくなった。それから間もなく、今
度はほんとうに、私も眠ってしまったのである。もっとも夢に枯野をかけめぐるような、
寝苦しい眠りではあったけれど……