壁の文字
諸君もきっと新聞やなにかで、首無し死体の記事を読まれたことがあるにちがいない。
しかし実際にぶつかった首無し死体というものが、どんなに恐ろしいものであるか、それ
は諸君の夢想だに出来ないことだろう。活字で表現された首無し死体など、実在のものの
持つ恐ろしさ、おぞましさ、いやらしさの百分の一、千分の一、いや、万分の一も読者に
つたえることは出来ないのだ。
私はよくあのとき、気が遠くならなかったものだと思う。これでみると人間の神経なん
て、脆もろそうでいて案外強きよう靭じんなものかも知れない。もっともこれはそのとき
の条件にもよる。二人で酒を飲んでいて、一人がさきにがっくりいくと、先を越されたあ
との一人は、どんなに飲んでも酔えなくなるものだが、その時の、私がそれだった。直記
に先を越されたものだから、気絶なんてゼイタクな真ま似ねはしていられなかったのであ
る。
「仙石、しっかりしろ。君が参っちゃおしまいじゃないか」
私はいやというほど直記の背中をどやしつけてやった。失神の一歩手前にあった直記
は、それでやっとシャッキリした。
「いや、ああ、有難う。大変だ。とにかく大変なことになった。どうしよう。どうしよ
う、屋代、どうしたらいいのだろう」
仙石という男は露悪家で、悪党がりで、故意に人の心をきずつけて喜んでいる男だが、
実際はいたって気の小さな臆おくび病よう者なのである。
「どうしようって、とにかく警察へ報しらせなきゃ……」
「警察? 警察? 警察? 冗談じゃない、警察なんてまっぴらだ。警察はいけないよ。
そんなことをすると一家の恥が明るみへ出てしまう。屋代、それは冗談だろう。警察なん
て、報らせなくてもいいだろう」
「馬鹿をいっちゃいかん、かりそめにも殺人事件だ。しかも、これはただの事件じゃない
ぜ。犯人が首を持っていったんだ、このまま伏せておくなんてことが出来るもんか」
「犯人が首を持っていった……? 屋代、犯人はなんだって首を持っていった?」
「ぼくもいまそれを考えているところだが、首を持っていくというのは、ふつう被害者の
人物判定を困難にするためだろう。だから……」
「しかし、屋代、この場合、そんなこと無意味じゃないか。首がなくったってこの体……
蜂屋は顔より体のほうに大きな特徴を持っていやアがるんだ」
直記はかわいた声をあげてわらった。
「仙石、しかし、これは果たして蜂屋だろうか」
「え? なに? な、なにをいうんだ君は……この体を見たらそんなこと、いえる筋がな
いじゃないか」
「しかし、この家にはこれと同じ体つきをした人物が、もう一人いる筈はずじゃないか」
直記は驚いて床からとびあがった。
「な、なにをいうのだ! 君は守もり衛えのことをいってるのかい。バ、馬鹿な! おや
じは何も守衛を殺すわけがないじゃないか」
今度は私のとびあがる番だった。私は啞あ然ぜんとして直記の顔を見直した。直記は
はっとした面持で、弾はじきかえすように私の顔をにらんでいる。やっと私は咽の喉どに
からむ痰たんを切った。
「仙石、めったなことをいうもんじゃない。おれだからいいようなものの……しかし、君
はこれをお父さんの仕業だと思っているのかい」
仙石はまぶしそうに私の視線をさけながら、ゴトゴト部屋のなかを歩きだした。