「さて……」
と、しばらくしてから、金田一耕助は、またにこにこと微笑を取り戻した顔になって、
一同を見渡すと、
「ぼくはさっき、なんの話をしていたのでしたっけね。そうそう、蜂屋小市の殺された時
刻が、九時以前だということでしたね。それについてぼくはいま、胃の内容物の消化状態
や、八千代さんのスリッパの裏についた血が、当てにならんものであるということを、い
おうとしていたのでした。八千代さんが共犯者とわかると、そんなものはすべて故意に、
当局の眼をゴマ化すためにあらかじめ、用意しておくことができるということを、皆さん
にお話ししていたのでした。では、なぜ、ぼくが犯行を、九時以前と決定したかという
と、それは直記さん、あなたのおかげですよ」
直記はピクリと顔をあげた。そして、さぐるように金田一耕助の顔を見詰めていた。
金田一耕助は、にこにことその顔を見返しながら、
「ここで、もう一度、あの晩のことをおさらいしてみましょう。あの晩、九時にあなたが
た、直記さんと屋代さん、それから守衛さんと八千代さんは、洋館のほうの食堂で食事を
しましたね。そのとき、蜂屋は部屋へとじこもったきり顔を見せなかった。いいえ、ほん
とうをいうと誰も蜂屋が部屋にいるのを見たものはないのですから、そのとき、蜂屋君が
真実部屋に閉じこもっていたという証拠はどこにもない。いやいや、一足とびに結論をい
うと、そのときすでに蜂屋は離れで殺されていたのだから、部屋にはいなかったというの
がほんとうです。ところで、皆さんの食事がおわったあとで、八千代さんが蜂屋の部屋へ
食事を持っていった。このことにはふたつの意味があったのですよ」
金田一耕助は、私のほうへ眼をむけると、
「賢明な屋代さんは、すでに気がついていられると思いますが、ふたつの意味とは、まず
第一に、蜂屋が生きてまだ部屋にいると思わせること。第二に、その時刻に食事をとった
と思わせること。第二のほうは、むろん、死体が解剖されたとき、胃の内容物が検査され
ることを予想して、あらかじめ、打っておいた手なんです。つまり、犯人──というより
は、犯人たちといったほうが正しいのかも知れませんが、かれらは、蜂屋の死を、十二時
以後と思わせたかったからですよ。むろん、死後硬直の問題もあるが、死後の推定時間と
いうやつは、かなり幅があるものなんです。だから、一方に、胃の内容物の消化状態とい
うデータをこしらえておけば、あるいは死亡時刻もゴマ化せるかも知れないと思ったんで
すね。そして、これはまんまと成功したんですね。もっとも、それには、八千代さんが一
時ごろ、フラフラ歩くところをみせ、そのときにスリッパの裏に血がついたと思わせるこ
とによって、いよいよ、死亡時刻の錯誤を決定的なものにしようとしたんです」
私は固かた唾ずをのむ思いで、金田一耕助の言葉に耳を傾けていた。なにかしら、心臓
がガンガン鳴る思いであった。直記もシーンと謹聴している。鉄之進とお柳さまは、まじ
まじと、金田一耕助の口くち許もとを視み詰つめている。四よ方も太たはぽかんと口をあ
けて、口のはたから涎よだれを垂らしている。お喜多婆アは、にくにくしげな眼まな差ざ
しで、直記の横顔を視詰めている。磯川警部は、それらのひとびとの顔色を、満遍なくう
かがっていた。
金田一耕助は言葉をついで、
「ではなぜ、犯人は犯行の時刻を十二時以後と思わせたかったか──それはたぶん、十二時
以後にはアリバイがあったのでしょう。誰かといっしょにいることによって、離れへ近寄
らなかったことを証明させることができたのでしょう。それに反し、真実の犯行時刻に
は、誰も犯人のいどころを知るものがなかったのでしょう」
私はドキッとした思いで、また直記の顔をぬすみ視た。あの夜ひと晩、私をそばにひき
つけていたのは直記ではないか。