では、何な故ぜその時刻に私が眼覚めたか。……それは直記のためであった。私は隣室
からきこえてくる異様な物音と呟つぶやきによって眼が覚めた。呟きは直記の声であっ
た。何をいっているのか、言葉の意味はわからなかったけれど、直記が何か呟きながら部
屋のなかをぐるぐる歩きまわっているらしい。
私の心臓はにわかにドキドキしはじめ、全身の緊張をもって、あたりの気配をうかがっ
ていた。私がそのときうかがっていたのは、必ずしも直記ばかりではない。いや、私には
そのとき直記が、何をやっているのか、ちゃんとわかっていたのだ。私の知りたかったの
は、屋敷の他の部分の気配だったのだ。
万事は好都合らしく見えた。直記の部屋をのぞいては、屋敷のなかは深海の底のように
シーンとしずまりかえっている。私はそっと寝床から起きなおった。それは極く自然な軽
い運動であったけれど、それでもミシリと床が鳴ったときには、私は思わずハッとした。
しかし、考えてみると、いまの直記に、そのような微細な物音がわかる筈はずはないの
だ。いやいや、もっと大きな物音だって、かれの呟きと、かれのあてどもない歩行を、さ
またげることはできなかろう。
あいかわらず、何かブツブツ呟きながら、隣り座敷を歩きまわる直記の気配を耳にする
と、いざというときの用意のために身支度をした。
直記は相変わらず、低声でブツブツ呟きながら、部屋のなかを歩きまわっている。それ
は終点のない環状線をあるいているようなものだ。私はいらいらした気持ちで、かれの円
周歩行に耳をすましていた。
だが、とうとう、直記の円周歩行は破れたのである。私は隣室の障子のあく音を耳にし
た。私の心臓はいよいよ躍る。ひょっとすると、今夜チャンスが来るのではあるまい
か……。
私も障子をあけて、そっと廊下をのぞいてみた。廊下にはいつもひとつだけ、暗い電燈
がついている。その仄ほの暗ぐらい廊下のはしに、直記がボンヤリ立っている。
「おい、仙石、どうしたんだ」
私はわざと低い声で、そう言葉をかけてみた。しかし、直記は依然として、うつろの眼
を見張ったままボンヤリとうすら寒く立っている。見張った眼は、虚こ空くうの一点を凝
ぎよう視ししたまま動かない。私はそっとそばへよると、直記の眼のまえでかるく両手を
ふってみせた。それでもなおかつ、直記の凝視のくずれないのを見届けると、私は大いに
満足したのである。
直記はいま、完全な夢中遊行の状態に入っているのである。
そうなのだ、直記にも父鉄之進のあの奇妙な病気が遺伝されているのだ。夜歩く癖──見
栄坊の直記は、それを私に知られることをおそれて、極力かくすようにつとめていたが、
私はずっとまえから、彼にこの病気のあることを知っていたのだ。私の小説のなかでは、
わざとそのことは伏せておいたが。……
いまにして諸君は思い出されるだろう。蜂屋小市が殺された晩、直記はこの上もない用
心深さで村正を金庫のなかにおさめた。そして、私の協力なしには、絶対に金庫をひらく
ことが出来ぬよう工夫した。何故か。
それからまた、あの晩かれの部屋に寝かせるようにしたのみならず、ドアの内側へソ
ファを持っていって、それへ私を寝かせることにした。何故か。
つまりかれは、自分の夢中遊行の習慣を知っていたからなのだ。直記もまた、鉄之進と
同じように、激情的なシーンや議論で、感情が激発すると、夜歩く習慣があったのだ。し
かも蜂屋が殺された日は、激情的なシーンの連続だったではないか。