私のはげしい平手打ちによって、直記はやっと夢から覚めた。直記ははじめ、自分がい
まどういう状態にあるのか理解しかねる風ふ情ぜいであったが、それでもしだいに意識が
もどって来ると、急にくしゃくしゃと顔をしかめて、子供がベソをかくような表情をみせ
た。
「屋代」
と、かれは咽の喉どにからまるような声で、
「おれは……おれは……あの病気を起こしたのかい」
かれはあたりを見み廻まわすと、
「ああ、おれはこの滝へずり落ちそうになったのだね。それで君が親切に、おれを救って
ここへくくりつけてくれたのだね」
私はそのとき、声をあげて笑った。それから、はげしい平手打ちをつづけさまにくらわ
した。
「な、なにをするのだ、屋代」
「おい、直記、おれがそんな親切な男に見えるのかい、君からまるで、犬畜生のようにあ
つかわれながら、それでもおれがまだ、それほどの親切心を持っていると思うのかい。お
れはそんな男じゃない」
私はそこでまた、はげしい平手打ちをくらわせると、あらゆる憎悪をこめて、パッとか
れの顔へ痰たんを吐きかけた。
「な、なにをするのだ、屋代、き、君は気でも狂ったのか」
「気はもうとっくに狂っているよ」
私は鼻のさきでせせら笑って、
「戦争からかえって来て、可愛いお静が君の暴力に征服されて、さんざんおもちゃにされ
たあげく、発狂したと知った瞬間から、この屋代は気が狂ったのだ」
お静という名を口に出すとき、私の奥歯はキリキリ鳴った。直記もまた、お静という名
が私の口から出た瞬間、いっぺんに血の気をうしなってしまった。かれも漸ようやく今宵
の私がいつもとちがっていることに気がついたのだ。
「屋代!」
「まあ、いいからお聞き。おれはな、君のどんな毒舌でも罵ば倒とうでも、胸をさすって
じっと我慢することが出来ると思っていたのだ。君もまた、そう思ったからこそ、安心し
ておれを弄なぶりものにしていたんだろう。しかし、ふたりとも間違っていたのだ。物に
はおのずから限度のあることを、君もおれも気がつかなかった。おれがそれに気がついた
のは、お静と君とのいきさつを知ったときからだ。そして、君はいまにそれに気がつくの
だ」
「屋代、屋代……」
「黙れ、黙れ、黙って聞け。戦争にいくまえに、おれはどんなにいってお静のことを君に
頼んだか。なんとかおれが帰るまで、お静の面倒をみてやってくれ。そして、この女だけ
には手を出してくれるな……と。それからおれはこうもいった。おれは意気地のない男で
とても君のように図々しく女を口説けぬ。おれには生涯女は出来そうにないと思ってい
た。それが計らずも妙なチャンスから自分のものになった女だ。それだけにおれには尊
い。世界中でただひとりの女なのだ。この女を失っては、二度とおれには女は出来ぬ。そ
ういっておれはお静のことを君に託したのだ。そのとき君はなんといった。おれはそんな
に女にかつえちゃいねえ。ひとの女になんの興味があるものかと。……それでもおれはま
だ心配だったから、あのときたしかこういっておいた筈はずだな。おれは弱気で意気地の
ない人間だ。君から野良犬のようなあつかいをうけても、反抗することの出来ぬ男だ。し
かし、気をつけてくれろよ。こういう男がいちばん危険だということを。こういう男をお
こらせたら、どんなことをしでかすかわからないということを。……そういったとき、君
は表面せせら笑いながらも、内心かなり怖おそれていた様子だったじゃないか。それにも
拘かかわらず、君はお静に手を出した。暴力をもって手て籠ごめにした。さんざんお静を
おもちゃにした。自責の念にたえかねたお静が、発狂するにいたるまで、君はあれをおも
ちゃにしたのだ」
私はキリキリ奥歯を鳴らした。
「だから……だから、おれはいまこうして、あのときの約束どおりやっているのだ」
「屋代君、屋代君」
松の木にしばりつけられた直記は、身をよじるようにして喘あえいだ。月の光に額の汗
が、ギラギラと光っている。
「それじゃあれは、みんな君の仕業だったのかい。蜂屋や守もり衛えを殺したのも……」
私は、ひっつるような声をあげて笑った。
「直記、君はいつもおれのことを、三文探偵小説家と嘲あざけったな。そうだ。そのとお
り、いかにもおれは三文小説家だ、しかし、人間というものはな、真実のことをいわれる
のがいちばん痛いのだ。おれは君から、三文探偵小説家と罵ののしられるたびに、腹の底
が煮えくりかえるような怒りをおぼえた。しかし、ペンをとって書くおれの探偵小説は、
いかにも三文小説だった。だから、だから、おれはペンに代わり、血と肉とで探偵小説を
書いてみたんだ。どうだ、直記、おれの書いたこんどの探偵小説は、少しは君にも感銘を
あたえたろうな」