「やい、直記、八千代は処女だったぜ。これはおれにもちょっと意外だった。どうせ、君
のことだから、一度ぐらいはものにしているだろうと思ったのさ。なぜ、君はあいつに手
を出さなかったのだい。兄妹相そう姦かんをおそれたのかい。しかし、君とあいつが異母
兄妹という確証はどこにもないじゃないか。あっはっは、八千代の夢遊病かい、君はあれ
を見て、八千代と兄妹であるという確信を強めたのだね。親おや爺じからおのれに伝わっ
た同じ病気を、八千代も持っている。してみれば、八千代も親爺のタネにちがいない。
……そのことが君のような男にもブレーキになったのだろう。だがそのことなら、何も心
配することはなかったのだ。八千代の夢遊病はみんな噓さ、ありゃ、君の毒どく牙がを避
けるために八千代の演じたお茶番さ。君と兄妹であると思わせるために、おれが八千代に
知恵をつけたのだ」
直記のからだがまたふるえた。額に盛りあがったみみず腫ばれが、いかりのために爆発
しそうであった。
私はその鼻先でせせら笑った。
「はっはっは、惜しいことをしたなあ、残念なことをしたなあ。そうと知ったらものにし
ておくんだったろう。あっはっは。おれは八千代を自分のものにしたが、愛情らしいもの
は一度も感じたことはなかった。おれは、ただ憎しみのためにあいつを抱いてやったの
だ。君が八千代に首ったけだということを、おれはまえからよく知っていた。だからお静
の返報に、君の惚ほれている八千代をおもちゃにしてやろうと思ったのだ。八千代を抱い
てもおれはいつも冷静だった。いや、冷静だったとはいえないかも知れぬ。憎悪と復ふく
讐しゆうでいきり立っていたのだから……」
直記の顔には、そのとき世にも奇妙な表情が現われた。それは怒りでもない、恐怖でも
ない。ひょっとすると、それは八千代に対する憐れん憫びんであったかも知れぬ。だが、
そのことがまた私をかっとさせた。
「あっはっは、君は八千代を可哀そうな女だと思っているんだろう。そのとおり、まった
くそのとおりだよ。そういう関係になりながら、おれの心が少しも燃えて来ないのを知る
と、あいつはじりじりして来たのだ。あいつはおれに惚れてたわけじゃなかったろう。そ
のことだけは安心してもいい、唯ただ八千代のように自尊心の強い女は、男に自由にされ
ながら、しかし男の心が自分にないということは、このうえもない屈辱なのだ。だからあ
いつは、あらゆる手段、あらゆる狂態をつくしておれの心をつかもうとした。まったくそ
れは悲惨なほどの努力だったよ。おれと八千代の関係は、終始一貫そのとおりだった。お
れたちは愛しあってたわけじゃないんだ。反対にはじめからしまいまで憎みあっていたん
だ。そして、その憎しみのなかから、ソロソロとあの血みどろな三文探偵小説のプロット
が芽生えて来たのだ」
さすがに私も喋しやべりつかれて咽の喉どが乾いた。そこで私は流れの水を手ですくっ
て咽喉をうるおし、舌をしめした。
それからまた、直記のまえに立って演説をはじめた。
「そもそも今度の事件を最初にいい出したのは、おれじゃないんだ。八千代なんだ。君も
八千代が、古神家と仙石の悪あく因いん縁ねんを、どんなに嫌悪していたか知っているだ
ろう。八千代は母を憎んだ。君の親おや爺じを憎んだ。君を憎んだ。守もり衛えを憎ん
だ。バカの四よ方も太たを憎んだ。それのみならず自分自身をも憎んでいたのだ。八千代
は口癖のように、みんなみんな殺してしまいたい。そして自分も死んでしまいたいといい
つづけていた。それがおれに今度の小説の筋書を思いつかせたのだ。おれは冗談のように
こういった。君がそんなに殺したいなら、みんな殺してやってもいい、しかし、自分が死
ぬなんてバカらしいじゃないか。みんな殺してそのあとで、自分は涼しい顔をして生きて
いたほうがよっぽどいいじゃないかと。八千代も口では死にたいといっているものの、ほ
んとうは死ぬのはいやだと見えて、そんなことができるかと乗って来た。そこでやりかた
によっては出来ぬこともないと、持ち出したのが、他人を殺して首をチョン斬ぎる。そし
てそれを自分の身替わりに立てて、自分は別の人間になって、涼しい顔をして生きている
という、探偵小説としては、いちばん初歩のトリックだ。八千代はしかし探偵小説につい
ては素人しろうとだから、初歩もなにもわかったものじゃない。あいつはそのトリック
に、とびついて来たのだ」
直記の顔色に、また恐怖のいろがよみがえって来た。そのことが私の雄弁をたきつけ
た。私は夢中になってしゃべりつづけた。