「私がどうして、あなたに眼をつけたかというのですか。そうですね。あなたにとって、
最も大きな致命傷となったのは、直記氏があの村正を金庫の中へしまいこんだことです
ね。これで犯行の時刻の欺ぎ瞞まんが、すっかり無駄になってしまった。即ち、犯人は八
時前後に起こった殺人を、十二時以後に起こったことだと思わせようとしていたのです。
そのために八千代さんを使って、いろんなお芝居をさせている。それにも拘かかわらず、
十二時以後には、兇器はチャンと金庫のなかにおさまっていて、何人といえどもそれに近
付くことは出来なかった。これで犯人の計画はスッカリ無駄になるとともに、直記氏は無
意識のうちに、自分の無罪を証明していたのですよ。何な故ぜといって、直記氏が犯人な
ら、兇器を金庫へしまうような、そんな矛盾したことはやらなかったでしょうからね」
そうなのだ。直記のやつが村正を、金庫の中へしまったことが、そもそも私の失敗の第
一歩だったのだ。それを思えば完全に、私は直記に敗けたことになるのだ、おお、なんと
いう残念なことだろう。
しかし、当時にあっては、警視庁でも、そのことを、大して重視しているふうにも見え
なかったので、私もたかをくくっていた。まさか金田一耕助のような男が現われて、私の
やった間違いを、ひとつひとつ、洗いあげようとは夢にも思っていなかったから。
金田一耕助はまたいった。
「それから、もうひとつあなたの致命傷となったのは、小金井の屋敷の離れにのこってい
た、ローマ字で書いた名前ですね。あなたはあれを何故、全部、削りとってしまわなかっ
たのです。何故、あんな小細工をなすったのです。あなたはあれをYachiyoと読み、蜂屋が
八千代を待っている間に、書いたのだろうと、いわれたそうですが、それにしては痕きず
跡あとが古過ぎることに気がつきました。そこで私は拡大鏡で、入念に調べてみたのです
が、その結果、それはYachiyoではなく、Yashiroであることに、私は気がつきましたよ。つ
まり誰かがsをcにかえrをyに書きかえたのですね。そうわかると同時に、私はあなたの計画
の大部分が、ハッキリわかって来たのですよ」
そうだったのだ。金田一耕助もいうとおり、壁にあの文字を見つけたとき──それは蜂屋
を殺した直後だったが──私はあれを削りとるべきだったのだ。ところがYashiroとYachiyo
の不思議な相似が、つい私を誘惑し、あのような小細工を弄ろうしてしまったのだ。全部
削りとっておけば、そこからはなんの手て懸がかりもえられなかったであろうに。
金田一耕助はつづけてまたいう。
「さて、あの文字がヤシロだとわかると、誰かあなたに関係のあるひとが、あそこに住ん
でいたことになります。そこであなたの過去を調べているうちに、浮かびあがって来たの
がお静さんなる女性です。これで万事わかりました。即ち、あなたが表面によそおうてい
らっしゃる以上に、深い関係を、この事件にもっていらっしゃることが……」
金田一耕助はそれから、深刻な表情をしながら、私の書きためておいた、『岩頭にて』
より以前の記録を、コツコツ指ではじきながら、
「あなたはこの記録を、ここでプッツリ、尻しり切きれトンボにしておくつもりだったの
ですね。そして、直記氏を殺し、首をチョン斬ぎり、御自分は姿をくらます予定だったの
でしょう。そして、この記録の指さしている暗示から、直記の首無し死体を、自分の死体
だと警察の人達に、思いあやまらせる方針だったのですね。いや、今度の事件で、あなた
の目的としたところは、唯ただその一点、即ち、直記氏を殺し、その死体を自分の身替わ
りに立てるというところにあったのですね」
私は無言のままに頷うなずいた。そうなのだ。唯一つその目的のために、私は蜂屋を殺
し、守衛を殺し、最後に八千代を殺したのだ。そして首尾よく直記を殺すことが出来た
ら、私は、狂えるお静を抱いて、身をかくすつもりであったのだ。
それだのに……それだのに……私はすべての準備行動に成功しながら、唯一つのそれが
本当の目的であったところの、直記殺しにおいて躓つまずいてしまった。そしてお静
は……。
いや、お静のことについては心配はいらぬ。金田一耕助が万事ひきうけたといってくれ
た。私はあの男を信頼する。私を打ち負かした憎い男だが、私はなんとなく、あの男には
好意が持てるのだ。
私はつかれた。もうこれ以上書きつづけるのがいやになった。ここらで筆をおくことに
しよう。
いや、最後にもうひとこと、書き加えておくことがある。それはこの間、金田一耕助が
わざわざ報しらせてくれた仙石直記のその後の状態である。
今度の事件のショックが、直記の体内に潜伏していた病気を誘発したとみえて、かれは
目下、早発性痴ち呆ほう症しようとやらで、生ける屍しかばねも同様な状態だそうであ
る。
直記が涎よだれを垂らしながら、とりとめもない独り言を呟つぶやいているところを想
像すると、少しでも、私の溜りゆう飲いんはさがるのだ。
してみると、おお、私と直記のこの血闘は、いったいどちらが勝ったのであろうか。