これも、某と書かずに、何の誰と、ちやんと姓名を明にしたいのであるが、
五位は、風采の
この男が、
かう云ふ風采を具へた男が、周囲から受ける待遇は、恐らく書くまでもないことであらう。
所が、同僚の侍たちになると、進んで、彼を
しかし、五位はこれらの
しかし、それは、唯この男一人に、限つた事である。かう云ふ例外を除けば、五位は、依然として周囲の軽蔑の中に、犬のやうな生活を続けて行かなければならなかつた。第一彼には着物らしい着物が一つもない。
或る日、五位が三条坊門を神泉苑の方へ行く所で、子供が六七人、路ばたに集つて、何かしてゐるのを見た事がある。「こまつぶり」でも、廻してゐるのかと思つて、後ろから覗いて見ると、
では、この話の主人公は、唯、軽蔑される為にのみ生れて来た人間で、別に何の希望も持つてゐないかと云ふと、さうでもない。五位は五六年前から
しかし、五位が夢想してゐた、「芋粥に飽かむ」事は、存外容易に事実となつて現れた。その始終を書かうと云ふのが、芋粥の話の目的なのである。
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或年の正月二日、基経の
「大夫殿は、芋粥に飽かれた事がないさうな。」
五位の
「お気の毒な事ぢやの。」利仁は、五位が顔を挙げたのを見ると、軽蔑と
始終、いぢめられてゐる犬は、たまに肉を貰つても容易によりつかない。五位は、例の笑ふのか、泣くのか、わからないやうな笑顔をして、利仁の顔と、
「おいやかな。」
「……」
「どうぢや。」
「……」
五位は、その中に、衆人の視線が、自分の上に、集まつてゐるのを感じ出した。答へ方一つで、又、一同の嘲弄を、受けなければならない。或は、どう答へても、結局、
彼は、それを聞くと、
「いや……
この問答を聞いてゐた者は、皆、一時に、失笑した。「いや……忝うござる。」――かう云つて、五位の答を、真似る者さへある。所謂、
「では、その中に、御誘ひ申さう。」さう云ひながら、彼は、ちよいと顔をしかめた。こみ上げて来る笑と今飲んだ酒とが、喉で一つになつたからである。「……しかと、よろしいな。」
「忝うござる。」
五位は赤くなつて、
しかし
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それから、四五日たつた日の午前、加茂川の河原に沿つて、
冬とは云ひながら、物静に晴れた日で、白けた河原の石の間、
「どこでござるかな、手前をつれて行つて、やらうと仰せられるのは。」五位が馴れない手に手綱をかいくりながら、云つた。
「すぐ、そこぢや。お案じになる程遠くはない。」
「すると、粟田口辺でござるかな。」
「まづ、さう思はれたがよろしからう。」
利仁は今朝五位を誘ふのに、東山の近くに湯の湧いてゐる所があるから、そこへ行かうと云つて出て来たのである。赤鼻の五位は、それを
「粟田口では、ござらぬのう。」
「いかにも、もそつと、あなたでな。」
利仁は、微笑を含みながら、わざと、五位の顔を見ないやうにして、静に馬を歩ませてゐる。両側の人家は、次第に稀になつて、今は、広々とした冬田の上に、餌をあさる
「では、
「山科は、これぢや。もそつと、さきでござるよ。」
成程、さう云ふ中に、山科も通りすぎた。それ所ではない。何かとする中に、関山も後にして、
「まだ、さきでござるのう。」
利仁は微笑した。
「実はな、
五位は、
「敦賀と申すと、あの
利仁が、敦賀の人、藤原
「それは又、滅相な、東山ぢやと心得れば、山科。山科ぢやと心得れば、三井寺。揚句が越前の敦賀とは、一体どうしたと云ふ事でござる。始めから、さう仰せられうなら、下人共なりと、召つれようものを。――敦賀とは、滅相な。」
五位は、殆どべそを掻かないばかりになつて、
「利仁が一人居るのは、千人ともお思ひなされ。路次の心配は、御無用ぢや。」
五位の狼狽するのを見ると、利仁は、少し眉を
馬蹄の反響する野は、茫々たる
「あれに、よい使者が参つた。敦賀への言づけを申さう。」
五位は利仁の云ふ意味が、よくわからないので、
「これ、狐、よう聞けよ。」利仁は、狐を高く眼の前へつるし上げながら、わざと物々しい声を出してかう云つた。「其方、今夜の中に、敦賀の利仁が
云ひ
「いや、走るわ。走るわ。」
やつと、追ひついた二人の従者は、逃げてゆく狐の行方を眺めながら、手を
「
五位は、ナイイヴな尊敬と讃嘆とを洩らしながら、この狐さへ
抛り出された狐は、なぞへの斜面を、転げるやうにして、駈け下りると、水の無い河床の石の間を、器用に、ぴよいぴよい、飛び越えて、今度は、向うの斜面へ、勢よく、すぢかひに駈け上つた。駈け上りながら、ふりかへつて見ると、自分を手捕りにした侍の一行は、まだ遠い傾斜の上に馬を並べて立つてゐる。それが皆、指を揃へた程に、小さく見えた。殊に入日を浴びた、月毛と蘆毛とが、霜を含んだ空気の中に、描いたよりもくつきりと、浮き上つてゐる。
狐は、頭をめぐらすと、又枯薄の中を、風のやうに走り出した。
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一行は、予定通り翌日の
「あれを
見ると、成程、二疋の鞍置馬を牽いた、二三十人の男たちが、馬に跨がつたのもあり
「やはり、あの狐が、使者を勤めたと見えますのう。」
「
五位と利仁とが、こんな話をしてゐる中に、一行は、
「夜前、
二人が、馬から下りて、敷皮の上へ、腰を下すか下さない中に、
「さればでございまする。夜前、
「それは、又、
「それも唯、仰せられるのではございませぬ。さも、恐ろしさうに、わなわなとお震へになりましてな、『遅れまいぞ。遅れれば、おのれが、殿の御勘当をうけねばならぬ。』と、しつきりなしに、お泣きになるのでございまする。」
「して、それから、
「それから、多愛なく、お休みになりましてな。手前共の出て参りまする時にも、まだ、お眼覚にはならぬやうで、ございました。」
「如何でござるな。」郎等の話を聞き
「何とも驚き入る外は、ござらぬのう。」五位は、赤鼻を掻きながら、ちよいと、頭を下げて、それから、わざとらしく、呆れたやうに、口を開いて見せた。口髭には、今飲んだ酒が、
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その日の夜の事である。五位は、利仁の
直垂の下に利仁が貸してくれた、
すると、外の広庭で、誰か大きな声を出してゐるのが、耳にはいつた。声がらでは、どうも、今日、途中まで迎へに出た、白髪の郎等が何か
「この辺の下人、承はれ。殿の御意遊ばさるるには、明朝、
それが、二三度、繰返されたかと思ふと、やがて、人のけはひが止んで、あたりは
翌朝、眼がさめると、
五位は、寝起きの眼をこすりながら、殆ど周章に近い
それから、一時間の後、五位は利仁や
「芋粥に飽かれた事が、ござらぬげな。どうぞ、遠慮なく召上つて下され。」
舅の有仁は、童児たちに云ひつけて、更に幾つかの銀の提を膳の上に並べさせた。中にはどれも芋粥が、
「父も、さう申すぢやて。
利仁も側から、新な提をすすめて、意地悪く笑ひながらこんな事を云ふ。弱つたのは五位である。遠慮のない所を云へば、始めから芋粥は、一椀も吸ひたくない。それを今、我慢して、やつと、提に半分だけ平げた。これ以上、飲めば、喉を越さない中にもどしてしまふ、さうかと云つて、飲まなければ、利仁や有仁の厚意を無にするのも、同じである。そこで、彼は又眼をつぶつて、残りの半分を三分の一程飲み干した。もう後は一口も吸ひやうがない。
「何とも、忝うござつた。もう十分頂戴致したて。――いやはや、何とも忝うござつた。」
五位は、しどろもどろになつて、かう云つた。余程弱つたと見えて、口髭にも、鼻の先にも、冬とは思はれない程、汗が玉になつて、垂れてゐる。
「これは又、御少食ぢや。客人は、遠慮をされると見えたぞ。それそれその方ども、何を致して居る。」
童児たちは、有仁の語につれて、新な提の中から、芋粥を、
「いや、もう、十分でござる。……失礼ながら、十分でござる。」
もし、此時、利仁が、突然、向うの家の軒を指して、「あれを
「狐も、芋粥が欲しさに、見参したさうな。男ども、しやつにも、物を食はせてつかはせ。」
利仁の命令は、
五位は、芋粥を飲んでゐる狐を眺めながら、此処へ来ない前の彼自身を、なつかしく、心の中でふり返つた。それは、多くの侍たちに愚弄されてゐる彼である。
(大正五年八月)
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