序
これはある精神病院の患者、――第二十三号がだれにでもしゃべる話である。彼はもう三十を越しているであろう。が、一見したところはいかにも若々しい狂人である。彼の半生の経験は、――いや、そんなことはどうでもよい。彼はただじっと
僕はこういう彼の話をかなり正確に写したつもりである。もしまただれか僕の筆記に飽き足りない人があるとすれば、東京市外××村のS精神病院を尋ねてみるがよい。年よりも若い第二十三号はまず
一
三年
しかし僕の目をさえぎるものはやはり深い霧ばかりです。もっとも時々霧の中から太い
僕は水ぎわの岩に腰かけ、とりあえず食事にとりかかりました。コオンド・ビイフの
僕は
河童もまた足の早いことは決して
二
そのうちにやっと気がついてみると、僕は
やがて僕を載せた担架は細い
チャックは一日に二三度は必ず僕を診察にきました。また三日に一度ぐらいは僕の最初に見かけた河童、――バッグという
僕は一週間ばかりたった後、この国の法律の定めるところにより、「特別保護住民」としてチャックの隣に住むことになりました。僕の
僕はいつも日暮れがたになると、この部屋にチャックやバッグを迎え、河童の言葉を習いました。いや、彼らばかりではありません。特別保護住民だった僕にだれも皆好奇心を持っていましたから、毎日血圧を調べてもらいに、わざわざチャックを呼び寄せるゲエルという
ある
「こら、バッグ、何をしているのだ?」
チャックは
「どうもまことに
三
僕はこの先を話す前にちょっと河童というものを説明しておかなければなりません。河童はいまだに実在するかどうかも疑問になっている動物です。が、それは僕自身が彼らの間に住んでいた以上、少しも疑う余地はないはずです。ではまたどういう動物かと言えば、頭に短い毛のあるのはもちろん、手足に
四
僕はだんだん河童の使う日常の言葉を覚えてきました。従って河童の風俗や習慣ものみこめるようになってきました。その中でも一番不思議だったのは河童は我々人間の
「しかし両親のつごうばかり考えているのはおかしいですからね。どうもあまり手前勝手ですからね。」
その代わりに我々人間から見れば、実際また
「僕は生まれたくはありません。第一僕のお
バッグはこの返事を聞いた時、てれたように頭をかいていました。が、そこにい合わせた産婆はたちまち細君の生殖器へ太い
こういう返事をするくらいですから、河童の子どもは生まれるが早いか、もちろん歩いたりしゃべったりするのです。なんでもチャックの話では出産後二十六日目に神の
お産の話をしたついでですから、僕がこの国へ来た
遺伝的義勇隊を募 る※[#感嘆符三つ、63-8]
健全なる男女の河童よ※[#感嘆符三つ、63-9]
悪遺伝を撲滅 するために
不健全なる男女の河童と結婚せよ※[#感嘆符三つ、63-11]
健全なる男女の河童よ※[#感嘆符三つ、63-9]
悪遺伝を
不健全なる男女の河童と結婚せよ※[#感嘆符三つ、63-11]
「行なわれない? だってあなたの話ではあなたがたもやはり我々のように行なっていると思いますがね。あなたは令息が女中に
ラップは
五
僕はこのラップという河童にバッグにも劣らぬ世話になりました。が、その中でも忘れられないのはトックという河童に紹介されたことです。トックは河童仲間の詩人です。詩人が髪を長くしていることは我々人間と変わりません。僕は時々トックの
「やあ、よく来たね。まあ、その
トックはよく河童の生活だの河童の芸術だのの話をしました。トックの信ずるところによれば、当たり前の河童の生活ぐらい、
「ふん、君はこの国でも市民になる資格を持っている。……時に君は社会主義者かね?」
僕はもちろん qua(これは河童の使う言葉では「
「では百人の凡人のために甘んじてひとりの天才を犠牲にすることも顧みないはずだ。」
「では君は何主義者だ? だれかトック君の信条は無政府主義だと言っていたが、……」
「僕か? 僕は超人(直訳すれば超河童です。)だ。」
トックは
僕はある月のいい晩、詩人のトックと
「僕は超人的恋愛家だと思っているがね、ああいう家庭の
「しかしそれはどう考えても、矛盾しているとは思わないかね?」
けれどもトックは月明りの下にじっと腕を組んだまま、あの小さい窓の向こうを、――平和な五匹の河童たちの晩餐のテエブルを見守っていました。それからしばらくしてこう答えました。
「あすこにある玉子焼きはなんと言っても、恋愛などよりも衛生的だからね。」
六
実際また河童の恋愛は我々人間の恋愛とはよほど趣を
「
僕はとっさに詩集を投げ出し、戸口の
もっともまた時には雌の河童を
僕の知っていた
「なぜ政府は雌の河童が雄の河童を追いかけるのをもっと厳重に取り締まらないのです?」
「それは一つには官吏の中に雌の河童の少ないためですよ。雌の河童は雄の河童よりもいっそう
「じゃあなたのように暮らしているのは一番幸福なわけですね。」
するとマッグは
「あなたは我々河童ではありませんから、おわかりにならないのももっともです。しかしわたしもどうかすると、あの恐ろしい雌の河童に追いかけられたい気も起こるのですよ。」
七
僕はまた詩人のトックとたびたび音楽会へも出かけました。が、いまだに忘れられないのは三度目に
「Lied――Craback」(この国のプログラムもたいていは
クラバックは盛んな拍手のうちにちょっと我々へ一礼した後、静かにピアノの前へ歩み寄りました。それからやはり無造作に自作のリイドを
クラバックは全身に情熱をこめ、戦うようにピアノを
それから先は大混乱です。「警官横暴!」「クラバック、弾け! 弾け!」「
「これですか? これはこの国ではよくあることですよ。元来
マッグは何か飛んでくるたびにちょっと
「元来画だの文芸だのはだれの目にも何を表わしているかはとにかくちゃんとわかるはずですから、この国では決して発売禁止や展覧禁止は行なわれません。その代わりにあるのが演奏禁止です。なにしろ音楽というものだけはどんなに風俗を壊乱する曲でも、耳のない河童にはわかりませんからね。」
「しかしあの巡査は耳があるのですか?」
「さあ、それは疑問ですね。たぶん今の旋律を聞いているうちに細君といっしょに寝ている時の心臓の鼓動でも思い出したのでしょう。」
こういう間にも大騒ぎはいよいよ盛んになるばかりです。クラバックはピアノに向かったまま、
「そんな検閲は乱暴じゃありませんか?」
「なに、どの国の検閲よりもかえって進歩しているくらいですよ。たとえば××をごらんなさい。現につい
ちょうどこう言いかけたとたんです。マッグはあいにく脳天に空罎が落ちたものですから、quack(これはただ
八
僕は
「これですか? これは
もちろんこういう工業上の奇蹟は書籍製造会社にばかり起こっているわけではありません。絵画製造会社にも、音楽製造会社にも、同じように起こっているのです。実際またゲエルの話によれば、この国では平均一か月に七八百種の機械が新案され、なんでもずんずん人手を待たずに大量生産が行なわれるそうです。従ってまた職工の
「それはみんな食ってしまうのですよ。」
食後の葉巻をくわえたゲエルはいかにも
「その職工をみんな殺してしまって、肉を食料に使うのです。ここにある新聞をごらんなさい。今月はちょうど六万四千七百六十九匹の職工が
「職工は黙って殺されるのですか?」
「それは騒いでもしかたはありません。
これは
「つまり
「けれどもその肉を食うというのは、……」
「
こういう問答を聞いていたゲエルは手近いテエブルの上にあったサンドウィッチの皿を勧めながら、
「どうです? 一つとりませんか? これも職工の肉ですがね。」
僕はもちろん
九
しかし
なんでもある霧の深い晩、僕は
「クオラックス党を支配しているものは名高い政治家のロッペです。『正直は最良の外交である』とはビスマルクの言った言葉でしょう。しかしロッペは正直を
「けれどもロッペの演説は……」
「まあ、わたしの言うことをお聞きなさい。あの演説はもちろんことごとく
「けれども――これは失礼かもしれませんけれども、プウ・フウ新聞は労働者の味かたをする新聞でしょう。その社長のクイクイもあなたの支配を受けているというのは、……」
「プウ・フウ新聞の記者たちはもちろん労働者の味かたです。しかし記者たちを支配するものはクイクイのほかはありますまい。しかもクイクイはこのゲエルの後援を受けずにはいられないのです。」
ゲエルは相変わらず微笑しながら、純金の
「なに、プウ・フウ新聞の記者たちも全部労働者の味かたではありませんよ。少なくとも我々河童というものはだれの味かたをするよりも先に我々自身の味かたをしますからね。……しかしさらに
ゲエルはおお声に笑いました。
「それはむしろしあわせでしょう。」
「とにかくわたしは満足しています。しかしこれもあなたの前だけに、――河童でないあなたの前だけに手放しで
「するとつまりクオラックス内閣はゲエル夫人が支配しているのですね。」
「さあそうも言われますかね。……しかし七年
「戦争? この国にも戦争はあったのですか?」
「ありましたとも。将来もいつあるかわかりません。なにしろ隣国のある限りは、……」
僕は実際この時はじめて河童の国も国家的に孤立していないことを知りました。ゲエルの説明するところによれば、
「あの戦争の起こる前にはもちろん両国とも油断せずにじっと相手をうかがっていました。というのはどちらも同じように相手を恐怖していたからです。そこへこの国にいた獺が一匹、ある河童の夫婦を訪問しました。そのまた
「あなたはその夫婦を御存じですか?」
「ええ、――いや、
「それから戦争になったのですか?」
「ええ、あいにくその獺は勲章を持っていたものですからね。」
「戦争はどちらの勝ちになったのですか?」
「もちろんこの国の勝ちになったのです。三十六万九千五百匹の河童たちはそのために
「石炭殻を何にするのですか?」
「もちろん食糧にするのです。我々は、河童は腹さえ減れば、なんでも食うのにきまっていますからね。」
「それは――どうか
「この国でも醜聞には違いありません。しかしわたし自身こう言っていれば、だれも醜聞にはしないものです。哲学者のマッグも言っているでしょう。『
ちょうどそこへはいってきたのはこの
「お宅のお隣に火事がございます。」
「火――火事!」
ゲエルは驚いて立ち上がりました。僕も立ち上がったのはもちろんです。が、給仕は落ち着き払って次の言葉をつけ加えました。
「しかしもう消し止めました。」
ゲエルは給仕を見送りながら、泣き笑いに近い表情をしました。僕はこういう顔を見ると、いつかこの
「しかし火事は消えたといっても、奥さんはさぞお驚きでしょう。さあ、これを持ってお帰りなさい。」
「ありがとう。」
ゲエルは僕の手を握りました。それから急ににやりと笑い、小声にこう僕に話しかけました。
「隣はわたしの
僕はこの時のゲエルの微笑を――
十
「どうしたね? きょうはまた妙にふさいでいるじゃないか?」
その火事のあった翌日です。僕は
「ラップ君、どうしたね。」と言えば、[#「「ラップ君、どうしたね。」と言えば、」は底本では「「ラップ君、どうしたねと言えば。」]
「いや、なに、つまらないことなのですよ。――」
ラップはやっと頭をあげ、悲しい鼻声を出しました。
「僕はきょう窓の外を見ながら、『おや虫取り
「虫取り菫が咲いたということはどうして妹さんには不快なのだね?」
「さあ、たぶん
ラップは両手に顔を
「そんなことはどこでもありがちだよ。まあ勇気を出したまえ。」
「しかし……しかし
「それはあきらめるほかはないさ。さあ、トック君の
「トックさんは僕を
「じゃクラバック君の家へ行こう。」
僕はあの音楽会以来、クラバックにも友だちになっていましたから、とにかくこの大音楽家の家へラップをつれ出すことにしました。クラバックはトックに比べれば、はるかに
「どうしたね? クラバック君。」
僕はほとんど
「どうするものか? 批評家の
「しかし君は音楽家だし、……」
「それだけならば
ロックというのはクラバックとたびたび比べられる音楽家です。が、あいにく超人
「ロックも天才には違いない。しかしロックの音楽は君の音楽にあふれている近代的情熱を持っていない。」
「君はほんとうにそう思うか?」
「そう思うとも。」
するとクラバックは立ち上がるが早いか、タナグラの人形をひっつかみ、いきなり
「それは君もまた俗人のように耳を持っていないからだ。僕はロックを恐れている。……」
「君が?
「だれが
「では何を恐れているのだ?」
「何か
「どうも僕には
「ではこう言えばわかるだろう。ロックは僕の影響を受けない。が、僕はいつの
「それは君の感受性の……。」
「まあ、聞きたまえ。感受性などの問題ではない。ロックはいつも安んじてあいつだけにできる仕事をしている。しかし僕はいらいらするのだ。それはロックの目から見れば、あるいは一歩の差かもしれない。けれども僕には十
「しかし先生の英雄曲は……」
クラバックは細い目をいっそう細め、いまいましそうにラップをにらみつけました。
「黙りたまえ。君などに何がわかる? 僕はロックを知っているのだ。ロックに平身低頭する犬どもよりもロックを知っているのだ。」
「まあ少し静かにしたまえ。」
「もし静かにしていられるならば、……僕はいつもこう思っている。――僕らの知らない何ものかは僕を、――クラバックをあざけるためにロックを僕の前に立たせたのだ。哲学者のマッグはこういうことをなにもかも承知している。いつもあの
「どうして?」
「この近ごろマッグの書いた『
クラバックは僕に一冊の本を渡す――というよりも投げつけました。それからまた腕を組んだまま、
「じゃきょうは失敬しよう。」
僕はしょげ返ったラップといっしょにもう一度往来へ出ることにしました。人通りの多い往来は相変わらず
「やあ、しばらく会わなかったね。僕はきょうは久しぶりにクラバックを尋ねようと思うのだが、……」
僕はこの芸術家たちを
「そうか。じゃやめにしよう。なにしろクラバックは神経衰弱だからね。……僕もこの二三週間は眠られないのに弱っているのだ。」
「どうだね、僕らといっしょに散歩をしては?」
「いや、きょうはやめにしよう。おや!」
トックはこう叫ぶが早いか、しっかり僕の腕をつかみました。しかもいつか
「どうしたのだ?」
「どうしたのです?」
「なにあの自動車の窓の中から緑いろの
僕は多少心配になり、とにかくあの医者のチャックに診察してもらうように勧めました。しかしトックはなんと言っても、承知する
「僕は決して無政府主義者ではないよ。それだけはきっと忘れずにいてくれたまえ。――ではさようなら。チャックなどはまっぴらごめんだ。」
僕らはぼんやりたたずんだまま、トックの後ろ姿を見送っていました。僕らは――いや、「僕ら」ではありません。学生のラップはいつの間にか往来のまん中に
「
しかしラップは目をこすりながら、意外にも落ち着いて返事をしました。
「いえ、あまり
十一
これは哲学者のマッグの書いた「
×
阿呆はいつも彼以外のものを阿呆であると信じている。
×
我々の自然を愛するのは自然は我々を憎んだり
×
もっとも賢い生活は一時代の習慣を
×
我々のもっとも誇りたいものは我々の持っていないものだけである。
×
×
我々の生活に必要な思想は三千年
×
我々の特色は我々自身の意識を超越するのを常としている。
×
幸福は苦痛を伴い、平和は
×
自己を弁護することは他人を弁護することよりも困難である。疑うものは弁護士を見よ。
×
×
物質的欲望を減ずることは必ずしも平和をもたらさない。我々は平和を得るためには精神的欲望も減じなければならぬ。(クラバックはこの章の上にも
×
我々は人間よりも不幸である。人間は
×
成すことは成し得ることであり、成し得ることは成すことである。
×
ボオドレエルは白痴になった
×
もし理性に終始するとすれば、我々は当然我々自身の存在を否定しなければならぬ。理性を神にしたヴォルテエルの幸福に一生をおわったのはすなわち人間の河童よりも進化していないことを示すものである。
十二
ある割合に寒い午後です。僕は「
「ちょっとあの河童を取り調べてください。あの河童はちょうど
巡査は右手の棒をあげ、(この国の巡査は
「お前の名は?」
「グルック。」
「職業は?」
「つい二三日前までは郵便配達夫をしていました。」
「よろしい。そこでこの人の申し立てによれば、君はこの人の万年筆を盗んでいったということだがね。」
「ええ、一月ばかり前に盗みました。」
「なんのために?」
「子どもの
「その子どもは?」
巡査ははじめて相手の河童へ鋭い目を注ぎました。
「一週間前に死んでしまいました。」
「死亡証明書を持っているかね?」
やせた河童は腹の袋から一枚の紙をとり出しました。巡査はその紙へ目を通すと、急ににやにや笑いながら、相手の肩をたたきました。
「よろしい。どうも御苦労だったね。」
僕は
「どうしてあの河童をつかまえないのです?」
「あの河童は無罪ですよ。」
「しかし僕の万年筆を盗んだのは……」
「子どもの玩具にするためだったのでしょう。けれどもその子どもは死んでいるのです。もし何か御不審だったら、刑法千二百八十五条をお調べなさい。」
巡査はこう言いすてたなり、さっさとどこかへ行ってしまいました。僕はしかたがありませんから、「刑法千二百八十五条」を口の中に繰り返し、マッグの
「ペップ君、はなはだ失礼ですが、この国では罪人を罰しないのですか?」
ペップは
「罰しますとも。死刑さえ行なわれるくらいですからね。」
「しかし僕は
僕は委細を話した
「ふむ、それはこういうのです。――『いかなる犯罪を行ないたりといえども、
「それはどうも不合理ですね。」
「
ペップは巻煙草をほうり出しながら、気のない薄笑いをもらしていました。そこへ口を出したのは法律には縁の遠いチャックです。チャックはちょっと
「日本にも死刑はありますか?」
「ありますとも。日本では
僕は冷然と構えこんだペップに多少反感を感じていましたから、この機会に皮肉を浴びせてやりました。
「この国の死刑は日本よりも文明的にできているでしょうね?」
「それはもちろん文明的です。」
ペップはやはり落ち着いていました。
「この国では絞罪などは用いません。まれには電気を用いることもあります。しかしたいていは電気も用いません。ただその犯罪の名を言って聞かせるだけです。」
「それだけで河童は死ぬのですか?」
「死にますとも。我々河童の神経作用はあなたがたのよりも微妙ですからね。」
「それは死刑ばかりではありません。殺人にもその手を使うのがあります――」
社長のゲエルは
「わたしはこの間もある社会主義者に『貴様は
「それは案外多いようですね。わたしの知っていたある弁護士などはやはりそのために死んでしまったのですからね。」
僕はこう口を入れた
「その河童はだれかに
「それはつまり自殺ですね。」
「もっともその河童を蛙だと言ったやつは殺すつもりで言ったのですがね。あなたがたの目から見れば、やはりそれも自殺という……」
ちょうどマッグがこう言った時です。突然その
十三
僕らはトックの家へ駆けつけました。トックは右の手にピストルを握り、頭の皿から血を出したまま、高山植物の
「どうしたのだか、わかりません。ただ何か書いていたと思うと、いきなりピストルで頭を打ったのです。ああ、わたしはどうしましょう? qur-r-r-r-r, qur-r-r-r-r」(これは河童の泣き声です。)
「なにしろトック君はわがままだったからね。」
「もう
「何か書いていたということですが。」
哲学者のマッグは弁解するようにこう
「いざ、立ちてゆかん。娑婆界 を隔つる谷へ。
岩むらはこごしく、やま水は清く、
薬草の花はにおえる谷へ。」
マッグは僕らをふり返りながら、微苦笑といっしょにこう言いました。岩むらはこごしく、やま水は清く、
薬草の花はにおえる谷へ。」
「これはゲエテの『ミニヨンの歌』の
そこへ偶然自動車を乗りつけたのはあの音楽家のクラバックです。クラバックはこういう光景を見ると、しばらく戸口にたたずんでいました。が、僕らの前へ歩み寄ると、
「それはトックの
「いや、最後に書いていた詩です。」
「詩?」
やはり少しも騒がないマッグは髪を
「あなたはトック君の死をどう思いますか?」
「いざ、立ちて、……僕もまたいつ死ぬかわかりません。……
「しかしあなたはトック君とはやはり親友のひとりだったのでしょう?」
「親友? トックはいつも孤独だったのです。……娑婆界を隔つる谷へ、……ただトックは不幸にも、……岩むらはこごしく……」
「不幸にも?」
「やま水は清く、……あなたがたは幸福です。……岩むらはこごしく。……」
僕はいまだに泣き声を絶たない
「しかしこういうわがままの河童といっしょになった家族は気の毒ですね。」
「なにしろあとのことも考えないのですから。」
裁判官のペップは相変わらず、新しい
「しめた! すばらしい葬送曲ができるぞ。」
クラバックは細い目をかがやかせたまま、ちょっとマッグの手を握ると、いきなり戸口へ飛んでいきました。もちろんもうこの時には隣近所の河童が大勢、トックの家の戸口に集まり、珍しそうに家の中をのぞいているのです。しかしクラバックはこの河童たちを
「こら、こら、そうのぞいてはいかん。」
裁判官のペップは巡査の代わりに大勢の
「河童の生活というものをね。」
「河童の生活がどうなるのです?」
「我々河童はなんと言っても、河童の生活をまっとうするためには、……」
マッグは多少はずかしそうにこう小声でつけ加えました。
「とにかく我々河童以外の何ものかの力を信ずることですね。」
一四
僕に宗教というものを思い出させたのはこういうマッグの言葉です。僕はもちろん物質主義者ですから、
「それは
「じゃこの国にも教会だの寺院だのはあるわけなのだね?」
「
ある
大寺院の内部もまた広大です。そのコリント風の円柱の立った中には
「長老、
相手の河童もお
「これはラップさんですか? あなたも相変わらず、――(と言いかけながら、ちょっと言葉をつがなかったのはラップの
「きょうはこの
それからラップは
「ついてはどうかこの方の御案内を願いたいと思うのですが。」
長老は
「御案内と申しても、何もお役に立つことはできません。我々信徒の
僕はこういう説明のうちにもう退屈を感じ出しました。それはせっかくの長老の言葉も古い
コリント風の柱、ゴシック風の
「これは我々の聖徒のひとり、――あらゆるものに反逆した聖徒ストリントベリイです。この聖徒はさんざん苦しんだあげく、スウェデンボルグの哲学のために救われたように言われています。が、実は救われなかったのです。この聖徒はただ我々のように生活教を信じていました。――というよりも信じるほかはなかったのでしょう。この聖徒の我々に残した『伝説』という本を読んでごらんなさい。この聖徒も自殺未遂者だったことは聖徒自身告白しています。」
僕はちょっと
「これはツァラトストラの詩人ニイチェです。その聖徒は聖徒自身の造った超人に救いを求めました。が、やはり救われずに気違いになってしまったのです。もし気違いにならなかったとすれば、あるいは聖徒の
長老はちょっと黙った
「三番目にあるのはトルストイです。この聖徒はだれよりも苦行をしました。それは元来貴族だったために好奇心の多い公衆に苦しみを見せることをきらったからです。この聖徒は事実上信ぜられない
第四の龕の中の半身像は我々日本人のひとりです。僕はこの日本人の顔を見た時、さすがに
「これは
「これはワグネルではありませんか?」
「そうです。国王の友だちだった革命家です。聖徒ワグネルは晩年には食前の
僕らはもうその時には第六の
「これは聖徒ストリントベリイの友だちです。子どもの大勢ある細君の代わりに十三四のクイティの女をめとった商売人上がりの
僕は実際疲れていましたから、ラップといっしょに長老に従い、
「どうか我々の宗教の生活教であることを忘れずにください。我々の神、――『生命の
「いえ、……実はわたし自身もほとんど読んだことはないのです。」
ラップは頭の
「それではおわかりなりますまい。我々の神は一日のうちにこの世界を造りました。(『生命の
僕は長老の言葉のうちに詩人のトックを思い出しました。詩人のトックは不幸にも僕のように無神論者です。僕は河童ではありませんから、生活教を知らなかったのも無理はありません。けれども河童の国に生まれたトックはもちろん「生命の樹」を知っていたはずです。僕はこの教えに従わなかったトックの最後を憐れみましたから、長老の言葉をさえぎるようにトックのことを話し出しました。
「ああ、あの気の毒な詩人ですね。」
長老は僕の話を聞き、深い息をもらしました。
「我々の運命を定めるものは信仰と境遇と偶然とだけです。(もっともあなたがたはそのほかに遺伝をお数えなさるでしょう。)トックさんは不幸にも信仰をお持ちにならなかったのです。」
「トックはあなたをうらやんでいたでしょう。いや、僕もうらやんでいます。ラップ君などは年も若いし、……」
「僕も
長老は僕らにこう言われると、もう一度深い息をもらしました。しかもその目は涙ぐんだまま、じっと黒いヴェヌスを見つめているのです。
「わたしも実は、――これはわたしの秘密ですから、どうかだれにもおっしゃらずにください。――わたしも実は我々の神を信ずるわけにいかないのです。しかしいつかわたしの
ちょうど長老のこう言った時です。突然
「この
十分ばかりたった
「あれではあの長老も『生命の樹』を信じないはずですね。」
しばらく黙って歩いた後、ラップは僕にこう言いました。が、僕は返事をするよりも思わず大寺院を振り返りました。大寺院はどんより曇った空にやはり高い塔や
一五
それからかれこれ一週間の後、僕はふと医者のチャックに珍しい話を聞きました。というのはあのトックの
詩人トック君の幽霊に関する報告。(心霊学協会雑誌第八千二百七十四号所載)
わが心霊学協会は先般自殺したる詩人トック君の旧居にして現在は××写真師のステュディオなる□□街第二百五十一号に臨時調査会を開催せり。列席せる会員は
我ら十七名の会員は心霊協会会長ペック氏とともに九月十七日午前十時三十分、我らのもっとも信頼するメディアム、ホップ夫人を同伴し、
我ら会員はホップ夫人とともに円卓をめぐりて
問 君は何ゆえに幽霊に
答 死後の名声を知らんがためなり。
問 君――あるいは心霊諸君は死後もなお名声を欲するや?
答 少なくとも
問 君はその詩人の姓名を知れりや?
答 予は不幸にも忘れたり。ただ彼の好んで作れる十七字詩の一章を記憶するのみ。
問 その詩は
答「古池や
問 君はその詩を佳作なりとなすや?
答
問 しからばその理由は
答 我ら河童はいかなる芸術にも河童を求むること痛切なればなり。
会長ペック氏はこの時にあたり、我ら十七名の会員にこは心霊学協会の臨時調査会にして
問 心霊諸君の生活は如何?
答 諸君の生活と異なることなし。
問 しからば君は君自身の自殺せしを後悔するや?
答 必ずしも後悔せず。予は心霊的生活に
問 自活するは容易なりや否や?
トック君の心霊はこの問に答うるにさらに問をもってしたり。こはトック君を知れるものにはすこぶる自然なる
答 自殺するは容易なりや否や?
問 諸君の生命は永遠なりや?
答 我らの生命に関しては諸説
問 君自身の信ずるところは?
答 予は常に懐疑主義者なり。
問 しかれども君は少なくとも心霊の存在を疑わざるべし?
答 諸君のごとく確信するあたわず。
問 君の交友の多少は如何?
答 予の交友は古今東西にわたり、三百人を下らざるべし。その著名なるものをあぐれば、クライスト、マインレンデル、ワイニンゲル……
問 君の交友は自殺者のみなりや?
答 必ずしもしかりとせず。自殺を弁護せるモンテェニュのごときは予が
問 ショオペンハウエルは健在なりや?
答 彼は
我ら会員は相次いでナポレオン、
問
答 ある批評家は「群小詩人のひとり」と言えり。
問 彼は予が詩集を贈らざりしに
答 君の全集は出版せられたれども、売行きはなはだ振わざるがごとし。
問 予の全集は三百年の
答 彼女は
問 彼女はいまだ不幸にもラックの義眼なるを知らざるなるべし。予が子は如何?
答 国立孤児院にありと聞けり。
トック君はしばらく沈黙せる後、新たに質問を開始したり。
問 予が家は如何?
答 某写真師のステュディオとなれり。
問 予の机はいかになれるか?
答 いかなれるかを知るものなし。
問 予は予の机の
ホップ夫人は最後の言葉とともにふたたび急劇に
一六
僕はこういう記事を読んだ
「しかしあなたは子どものようですが……」
「お前さんはまだ知らないのかい? わたしはどういう運命か、母親の腹を出た時には
僕は
「あなたはどうもほかの河童よりもしあわせに暮らしているようですね?」
「さあ、それはそうかもしれない。わたしは若い時は年よりだったし、年をとった時は若いものになっている。従って年よりのように欲にも
「なるほどそれでは安らかでしょう。」
「いや、まだそれだけでは安らかにはならない。わたしは
僕はしばらくこの
「ではあなたはほかの河童のように格別生きていることに
年をとった河童は僕の顔を見ながら、静かにこう返事をしました。
「わたしもほかの河童のようにこの国へ生まれてくるかどうか、一応父親に尋ねられてから母親の胎内を離れたのだよ。」
「しかし僕はふとした拍子に、この国へ
「出ていかれる路は一つしかない。」
「というのは?」
「それはお前さんのここへ来た路だ。」
僕はこの答えを聞いた時になぜか身の毛がよだちました。
「その路があいにく見つからないのです。」
年をとった河童は水々しい目にじっと僕の顔を見つめました。それからやっと
「さあ、あすこから出ていくがいい。」
年をとった河童はこう言いながら、さっきの綱を指さしました。今まで僕の綱と思っていたのは実は
「ではあすこから出さしてもらいます。」
「ただわたしは前もって言うがね。出ていって後悔しないように。」
「
僕はこう返事をするが早いか、もう綱梯子をよじ登っていました。年をとった河童の頭の皿をはるか下にながめながら。
一七
僕は
「君はあしたは
「Qua」
「なんだって?」
「いや、いるということだよ。」
だいたいこういう調子だったものです。
しかし河童の国から帰ってきた後、ちょうど一年ほどたった時、僕はある事業の失敗したために……(S
ではその話はやめましょう。しかしある事業の失敗したために僕はまた河童の国へ帰りたいと思い出しました。そうです。「
僕はそっと
「おい、バッグ、どうして来た?」
「へい、お見舞いに上がったのです。なんでも御病気だとかいうことですから。」
「どうしてそんなことを知っている?」
「ラディオのニウスで知ったのです。」
バッグは得意そうに笑っているのです。
「それにしてもよく来られたね?」
「なに、
僕は
「しかしこの辺には川はないがね。」
「いえ、こちらへ上がったのは水道の鉄管を抜けてきたのです。それからちょっと
「消火栓をあけて?」
「
それから僕は二三日ごとにいろいろの河童の訪問を受けました。僕の病はS
(僕は後ろを振り返ってみた。が、もちろん机の上には花束も何ものっていなかった。)
それからこの本も哲学者のマッグがわざわざ持ってきてくれたものです。ちょっと最初の詩を読んでごらんなさい。いや、あなたは河童の国の言葉を御存知になるはずはありません。では代わりに読んでみましょう。これは近ごろ出版になったトックの全集の一冊です。――
(彼は古い電話帳をひろげ、こういう詩をおお声に読みはじめた。)
――椰子 の花や竹の中に
仏陀 はとうに眠っている。
路 ばたに枯れた無花果 といっしょに
基督 ももう死んだらしい。
しかし我々は休まなければならぬ
たとい芝居 の背景の前にも。
(そのまた背景の裏を見れば、継ぎはぎだらけのカンヴァスばかりだ?)――
しかし我々は休まなければならぬ
たとい
(そのまた背景の裏を見れば、継ぎはぎだらけのカンヴァスばかりだ?)――
けれども僕はこの詩人のように
(昭和二年二月十一日)
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