つつましく
老人はていねいに上半身の垢を落してしまうと、
老人の心には、この時「死」の影がさしたのである。が、その「死」は、かつて彼を脅かしたそれのように、いまわしい何物をも蔵していない。いわばこの桶の中の
老人は
「いや、先生、こりゃとんだところでお眼にかかりますな。どうも
老人は、突然こう呼びかける声に驚かされた。見ると彼の
「相変らず御機嫌で結構だね。」
二
「どういたしまして、いっこう結構じゃございません。結構と言や、先生、八犬伝はいよいよ
細銀杏は肩の手拭を桶の中へ入れながら、一調子張り上げて弁じ出した。
「
馬琴は黙ってまた、足を洗い出した。彼はもちろん彼の著作の愛読者に対しては、昔からそれ相当な好意を持っている。しかしその好意のために、相手の人物に対する評価が、変化するなどということは少しもない。これは
「なにしろあれだけのものをお書きになるんじゃ、並大抵なお骨折りじゃございますまい。まず当今では、先生がさしずめ日本の
平吉はまた大きな声をあげて笑った。その声に驚かされたのであろう。
「貴公は相変らず
馬琴は
「これはお尋ねにあずかって恐縮至極でございますな。手前のはほんの
「いや
「そりゃ御冗談で。」
「いや、まったく性に合わないと見えて、いまだにとんと眼くらの
馬琴は、「性に合わない」という
三
彼が「性に合わない」という
「ははあ、やっぱりそういうものでございますかな。手前などの量見では、先生のような大家なら、なんでも自由にお作りになれるだろうと存じておりましたが――いや、天
平吉はしぼった手拭で、皮膚が赤くなるほど、ごしごし体をこすりながら、やや遠慮するような調子で、こう言った。が、自尊心の強い馬琴には、彼の謙辞をそのまま
「もっとも、
しかし、こう言うとともに、彼は急に自分の子供らしい自尊心が恥ずかしく感ぜられた。自分はさっき平吉が、最上級の
「でございましょう。そうなくっちゃ、とてもああいう傑作は、お出来になりますまい。してみますと、先生は歌も発句もお作りになると、こうにらんだ手前の眼光は、やっぱりたいしたものでございますな。これはとんだ
平吉はまた大きな声を立てて、笑った。さっきの
「いや、うっかり話しこんでしまった。どれ私も一風呂、浴びて来ようか。」
妙に間の悪くなった彼は、こういう
「では先生そのうちに一つ歌か発句かを書いて頂きたいものでございますな。よろしゅうございますか。お忘れになっちゃいけませんぜ。じゃ手前も、これで失礼いたしましょう。おせわしゅうもございましょうが、お通りすがりの節は、ちとお立ち寄りを。手前もまた、お邪魔に上がります。」
平吉は追いかけるように、こう言った。そうして、もう一度手拭を洗い出しながら、
四
柘榴口の中は、夕方のようにうす暗い。それに湯気が、霧よりも深くこめている。眼の悪い馬琴は、その中にいる人々の間を、あぶなそうに押しわけながら、どうにか風呂の
湯加減は少し熱いくらいである。彼はその熱い湯が爪の先にしみこむのを感じながら、長い
馬琴の空想には、昔から
彼の空想は、ここまで来て、急に破られた。同じ柘榴口の中で、誰か彼の
「曲亭先生の、著作堂主人のと、大きなことを言ったって、馬琴なんぞの書くものは、みんなありゃ焼き直しでげす。早い話が八犬伝は、手もなく
馬琴はかすむ眼で、この
「第一馬琴の書くものは、ほんの
憎悪の感情は、どっちか優越の意識を持っている以上、起したくも起されない。馬琴も相手の言いぐさが
「そこへ行くと、
馬琴の経験によると、自分の
こう気のついた彼は、すぐに便々とまだ湯に浸っている自分の愚を責めた。そうして、
「とにかく、馬琴は食わせ物でげす。日本の
しかし風呂の中ではさっきの男が、まだ馬琴がいるとでも思うのか、依然として猛烈なフィリッピクスを発しつづけている。ことによると、これはその
五
しかし、銭湯を出た時の馬琴の気分は、沈んでいた。眇の毒舌は、少なくともこれだけの範囲で、確かに予期した成功を収め得たのである。彼は秋晴れの江戸の町を歩きながら、風呂の中で聞いた悪評を、いちいち彼の批評眼にかけて、綿密に点検した。そうして、それが、いかなる点から考えてみても、一顧の価のない愚論だという事実を、即座に証明することが出来た。が、それにもかかわらず、
彼は不快な眼をあげて、両側の町家を眺めた。町家のものは、彼の気分とは没交渉に、皆その日の生計を励んでいる。だから「諸国
「どうして
馬琴はまた、考えつづけた。
「己を不快にするのは、第一にあの眇が己に悪意を持っているという事実だ。人に悪意を持たれるということは、その理由のいかんにかかわらず、それだけで己には不快なのだから、しかたがない。」
彼は、こう思って、自分の気の弱いのを恥じた。実際彼のごとく傍若無人な態度に出る人間が少なかったように、彼のごとく他人の悪意に対して、敏感な人間もまた少なかったのである。そうして、この行為の上では全く反対に思われる二つの結果が、実は同じ原因――同じ神経作用から来ているという事実にも、もちろん彼はとうから気がついていた。
「しかし、己を不快にするものは、まだほかにもある。それは己があの眇と、対抗するような位置に置かれたということだ。己は昔からそういう位置に身を置くことを好まない。勝負事をやらないのも、そのためだ。」
ここまで分析して来た彼の頭は、さらに一歩を進めると同時に、思いもよらない変化を、気分の上に起させた。それはかたくむすんでいた彼の唇が、この時急にゆるんだのを見ても、知れることであろう。
「最後に、そういう位置へ己を置いた相手が、あの眇だという事実も、確かに己を不快にしている。もしあれがもう少し高等な相手だったら、己はこの不快を反※[#「てへん+発」、129-上段-3]するだけの、反抗心を起していたのに相違ない。何にしても、あの眇が相手では、いくら己でも閉口するはずだ。」
馬琴は苦笑しながら、高い空を仰いだ。その空からは、朗かな
「しかし、眇がどんな悪評を立てようとも、それは精々、己を不快にさせるくらいだ。いくら鳶が鳴いたからといって、
彼は
六
うちへ帰ってみると、うす暗い玄関の
「今日も朝のうちはつぶされるな。」
こう思いながら、彼が式台へ上がると、あわただしく出迎えた下女の杉が、手をついたまま、下から彼の顔を見上げるようにして、
「
彼はうなずきながら、ぬれ手拭を杉の手に渡した。が、どうもすぐに書斎へは通りたくない。
「お
「
「お
「はい。坊ちゃんとごいっしょに。」
「
「山本様へいらっしゃいました。」
家内は皆、留守である。彼はちょいと、失望に似た感じを味わった。そうしてしかたなく、玄関の隣にある書斎の
開けてみると、そこには、色の白い、顔のてらてら光っている、どこか妙に取り澄ました男が、細い銀の
「いや、先生、ようこそお帰り。」
客は、襖があくとともに、
「大分にお待ちなすったろう。めずらしく今朝は、朝湯に行ったのでね。」
馬琴は、本能的にちょいと顔をしかめながら、いつもの通り、礼儀正しく座についた。
「へへえ、朝湯に。なるほど。」
市兵衛は、大いに感服したような声を出した。いかなる
「そこで今日は何か御用かね。」
「へえ、なにまた一つ原稿を頂戴に上がりましたんで。」
市兵衛は煙管を一つ指の先でくるりとまわして見せながら、女のようにやさしい声を出した。この男は不思議な性格を持っている。というのは、外面の行為と内面の心意とが、たいていな場合は一致しない。しないどころか、いつでも正反対になって現われる。だから、彼は大いに強硬な意志を持っていると、必ずそれに反比例する、いかにもやさしい声を出した。
馬琴はこの声を聞くと、再び本能的に顔をしかめた。
「原稿と言ったって、それは無理だ。」
「へへえ、何かおさしつかえでもございますので。」
「さかつかえるどころじゃない。今年は
「なるほどそれは御多忙で。」
と言ったかと思うと、市兵衛は煙管で灰吹きを
七
鼠小僧次郎太夫は、今年五月の上旬に
「何しろ先生、盗みにはいったお大名屋敷が七十六軒、盗んだ金が三千百八十三両二分だというのだから驚きます。盗人じゃございますが、なかなかただの人間に出来ることじゃございません。」
馬琴は思わず好奇心を動かした。市兵衛がこういう話をする後ろには、いつも作者に材料を与えてやるという
「ふむ、それはなるほどえらいものだね。私もいろいろ
「つまりまず賊中の豪なるものでございましょうな。なんでも以前は
馬琴は
「いかがでございましょう。そこで
鼠小僧はここに至って、たちまちまた元の原稿の催促へ舞い戻った。が、この慣用手段に慣れている馬琴は依然として承知しない。のみならず、彼は前よりもいっそう
「第一私がむりに書いたって、どうせろくなものは出来やしない。それじゃ売れ行きにかかわるのは言うまでもないことなのだから、貴公の方だってつまらなかろう。してみると、これは私の無理を通させる方が、結局両方のためになるだろうと思うが。」
「でございましょうが、そこを一つ御奮発願いたいので。いかがなものでございましょう。」
市兵衛は、こう言いながら、視線で彼の顔を「
「とても、書けないね。書きたくも、暇がないんだから、しかたがない。」
「それは手前、困却いたしますな。」
と言ったが、今度は突然、当時の作者仲間のことを話し出した。やっぱり細い銀の煙管を、うすい唇の間にくわえながら。
八
「また
市兵衛は、どういう気か、すべて作者の名前を呼びすてにする習慣がある。馬琴はそれを聞くたびに、自分もまた蔭では「馬琴が」と言われることだろうと思った。この軽薄な、作者を
「それから手前どもでも、
「ははあ、さようかね。」
馬琴の記憶には、いつか見かけたことのある春水の顔が、卑しく誇張されて浮んで来た。「私は作者じゃない。お客さまのお望みに従って、
「ともかくあれで、艶っぽいことにかけては、たっしゃなものでございますからな。それに
こう言いながら、市兵衛はちょいと馬琴の顔を見て、それからまたすぐに口にくわえている銀の煙管へ眼をやった。そのとっさの表情には、おそるべく下等な何者かがある。少なくとも、馬琴はそう感じた。
「あれだけのものを書きますのに、すらすら筆が走りつづけて、二三回分くらいなら、紙からはなれないそうでございます。ときに先生なぞは、やはりお早い方でございますか。」
馬琴は不快を感じるとともに、脅かされるような心もちになった。彼の筆の早さを春水や種彦のそれと比較されるということは、自尊心の
「時と場合でね。早い時もあれば、また
「ははあ、時と場合でね。なるほど。」
市兵衛は
「でございますが、たびたび申し上げた原稿の方は、一つ御承諾くださいませんでしょうか。春水なんぞも、……」
「私と
馬琴は腹を立てると、下唇を左の方へまげる癖がある。この時、それが恐ろしい勢いで左へまがった。
「まあ私は御免をこうむろう。――杉、杉、和泉屋さんのお
九
和泉屋市兵衛を
日の光をいっぱいに浴びた庭先には、葉の裂けた
彼は、この自然と対照させて、今さらのように世間の下等さを思い出した。下等な世間に住む人間の不幸は、その下等さに煩わされて、自分もまた下等な言動を余儀なくさせられるところにある。現に今自分は、和泉屋市兵衛を逐い払った。逐い払うということは、もちろん高等なことでもなんでもない。が、自分は相手の下等さによって、自分もまたその下等なことを、しなくてはならないところまで押しつめられたのである。そうして、した。したという意味は市兵衛と同じ程度まで、自分を卑しくしたというのにほかならない。つまり自分は、それだけ堕落させられたわけである。
ここまで考えた時に、彼はそれと同じような出来事を、近い過去の記憶に発見した。それは去年の春、彼のところへ
自分はあなたの八犬伝といい、巡島記といい、あんな長たらしい、拙劣な読本を根気よく読んであげたが、あなたは私のたった六冊物の読本に眼を通すのさえ拒まれた。もってあなたの人格の下等さがわかるではないか。――手紙はこういう文句ではじまって、先輩として後輩を食客に置かないのは、
馬琴はこの記憶の中に、長島政兵衛なるものに対する情けなさと、彼自身に対する情けなさとを同時に感ぜざるを得なかった。そうしてそれはまた彼を、言いようのない寂しさに導いた。が、日は無心に
十
それは、道徳家としての彼と芸術家としての彼との間に、いつも
しかし公衆は欺かれても、彼自身は欺かれない。彼は
この点において、思想的に臆病だった馬琴は、黙然として煙草をふかしながら、
馬琴は喜んで、この親友をわざわざ玄関まで、迎えに出た。
「
崋山は書斎に通ると、はたしてこう言った。見れば風呂敷包みのほかにも紙に巻いた
「お暇なら一つ御覧を願いましょうかな。」
「おお、さっそく、拝見しましょう。」
崋山はある興奮に似た感情を隠すように、ややわざとらしく微笑しながら、紙の中の絵絹をひらいて見せた。絵は
馬琴の眼は、この淡彩の
「いつもながら、結構なお出来ですな。私は
十一
「これは
崋山は、
「もちろん気に入ったと言っても、今まで描いたもののうちではというくらいなところですが――とても思う通りには、いつになっても、描けはしません。」
「それはありがたい。いつも頂戴ばかりしていて恐縮ですが。」
馬琴は、絵を眺めながら、つぶやくように礼を言った。未完成のままになっている彼の仕事のことが、この時彼の心の底に、なぜかふとひらめいたからである。が、崋山は崋山で、やはり彼の絵のことを考えつづけているらしい。
「古人の絵を見るたびに、私はいつもどうしてこう
「古人は
馬琴は崋山が自分の絵のことばかり考えているのを、
「それは後生も恐ろしい。だから私どもはただ、古人と後生との間にはさまって、身動きもならずに、押され押され進むのです。もっともこれは私どもばかりではありますまい。古人もそうだったし、後生もそうでしょう。」
「いかにも進まなければ、すぐに押し倒される。するとまず一足でも進む工夫が、
「さよう、それが何よりも肝腎です。」
主人と客とは、彼ら自身の
「八犬伝は相変らず、
やがて、崋山が話題を別な方面に開いた。
「いや、一向はかどらんでしかたがありません。これも古人には及ばないようです。」
「御老人がそんなことを言っては、困りますな。」
「困るのなら、私の方が誰よりも困っています。しかしどうしても、これで行けるところまで行くよりほかはない。そう思って、私はこのごろ八犬伝と
こう言って、馬琴は自ら恥ずるもののように、苦笑した。
「たかが
「それは私の絵でも同じことです。どうせやり出したからには、私も行けるところまでは行き切りたいと思っています。」
「お互いに討死ですかな。」
二人は声を立てて、笑った。が、その笑い声の中には、二人だけにしかわからないある寂しさが流れている。と同時にまた、主人と客とは、ひとしくこの寂しさから、一種の力強い興奮を感じた。
「しかし絵の方は
今度は馬琴が、話頭を一転した。
十二
「それはないが――御老人の書かれるものも、そういう心配はありますまい。」
「いや、大いにありますよ。」
馬琴は
「改名主などいうものは、
崋山は馬琴の
「それは大きにそういうところもありましょう。しかし改作させられても、それは御老人の恥辱になるわけではありますまい。
「それにしても、ちと横暴すぎることが多いのでね。そうそう一度などは獄屋へ衣食を送る
馬琴自身もこう言いながら、崋山といっしょに、くすくす笑い出した。
「しかしこの後五十年か百年たったら、改名主の方はいなくなって、八犬伝だけが残ることになりましょう。」
「八犬伝が残るにしろ、残らないにしろ、改名主の方は、存外いつまでもいそうな気がしますよ。」
「そうですかな。私にはそうも思われませんが。」
「いや、改名主はいなくなっても、改名主のような人間は、いつの世にも絶えたことはありません。
「御老人は、このごろ心細いことばかり言われますな。」
「私が心細いのではない。改名主どものはびこる世の中が、心細いのです。」
「では、ますます働かれたらいいでしょう。」
「とにかく、それよりほかはないようですな。」
「そこでまた、御同様に討死ですか。」
今度は二人とも笑わなかった。笑わなかったばかりではない。馬琴はちょいと顔をかたくして、崋山を見た。それほど崋山のこの冗談のような
「しかしまず若い者は、生きのこる分別をすることです。討死はいつでも出来ますからな。」
ほどを
十三
崋山が帰ったあとで、馬琴はまだ残っている興奮を力に、八犬伝の稿をつぐべく、いつものように机へ向った。先を書きつづける前に、昨日書いたところを一通り読み返すのが、彼の昔からの習慣である。そこで彼は今日も、細い行の間へべた一面に朱を入れた、何枚かの原稿を、気をつけてゆっくり読み返した。
すると、なぜか書いてあることが、自分の心もちとぴったり来ない。字と字との間に、不純な雑音が潜んでいて、それが全体の調和を至るところで破っている。彼は最初それを、彼の
「今の
そう思って、彼はもう一度読み返した。が、調子の狂っていることは前と一向変りはない。彼は老人とは思われないほど、心の中で
「このもう一つ前はどうだろう。」
彼はその前に書いたところへ眼を通した。すると、これもまたいたずらに粗雑な文句ばかりが、
しかし読むに従って拙劣な
「これは始めから、書き直すよりほかはない。」
彼は心の中でこう叫びながら、いまいましそうに原稿を向うへつきやると、
「自分はさっきまで、本朝に比倫を絶した大作を書くつもりでいた。が、それもやはり事によると、人なみに
こういう不安は、彼の上に、何よりも堪えがたい、
彼は机の前に身を横たえたまま、親船の沈むのを見る、難破した船長の眼で、失敗した原稿を眺めながら、静かに絶望の威力と戦いつづけた。もしこの時、彼の後ろの
「お祖父様ただいま。」
「おお、よく早く帰って来たな。」
この
十四
茶の間の方では、
「あのね、お
「よく
「うん、よく
「御勉強なさい。」
馬琴はとうとうふき出した。が、笑いの中ですぐまた
「それから?」
「それから――ええと――
「おやおや、それっきりかい。」
「まだあるの。」
太郎はこう言って、
「まだ何かあるかい?」
「まだね。いろんなことがあるの。」
「どんなことが。」
「ええと――お祖父様はね。今にもっとえらくなりますからね。」
「えらくなりますから?」
「ですからね。よくね。辛抱おしなさいって。」
「辛抱しているよ。」馬琴は思わず、真面目な声を出した。
「もっと、もっとようく辛抱なさいって。」
「誰がそんなことを言ったのだい。」
「それはね。」
太郎は
「だあれだ?」
「そうさな。今日は御仏参に行ったのだから、お寺の坊さんに聞いて来たのだろう。」
「違う。」
断然として首を振った太郎は、馬琴の膝から、半分腰をもたげながら、
「あのね。」
「うん。」
「浅草の
こう言うとともに、この子供は、家内中に聞えそうな声で、
馬琴の心に、厳粛な何物かが
「観音様がそう言ったか。勉強しろ。癇癪を起すな。そうしてもっとよく辛抱しろ。」
六十何歳かの老芸術家は、涙の中に笑いながら、子供のようにうなずいた。
十五
その夜のことである。
馬琴は薄暗い
始め筆を
「あせるな。そうして出来るだけ、深く考えろ。」
馬琴はややもすれば走りそうな筆をいましめながら、何度もこう自分にささやいた。が、頭の中にはもうさっきの星を砕いたようなものが、川よりも早く流れている。そうしてそれが刻々に力を加えて来て、否応なしに彼を押しやってしまう。
彼の耳にはいつか、
頭の中の流れは、ちょうど空を走る銀河のように、
「根かぎり書きつづけろ。今
しかし光の
この時彼の王者のような眼に映っていたものは、利害でもなければ、愛憎でもない。まして
× × ×
その間も茶の間の
「お
やがてお百は、針へ髪の油をつけながら、不服らしくつぶやいた。
「きっとまたお書きもので、夢中になっていらっしゃるのでしょう。」
お路は眼を針から離さずに、返事をした。
「困り者だよ。ろくなお金にもならないのにさ。」
お百はこう言って、伜と嫁とを見た。宗伯は聞えないふりをして、答えない。お路も黙って針を運びつづけた。
(大正六年十一月)
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