(下)隠れたる事実
「君、いくら『黒手組』との約束だって、僕に丈けは様子を話して呉れたっていいだろう」
私は伯父の家の門を出るのを待ち兼ねて、こう明智に問いかけたものです。
「ああ、いいとも」彼は案外た易く承知しました。「じゃ、コーヒでも飲みながら、ゆっくり話そうじゃないか」
そこで、私達は一軒のカフェーへ入り、奥まったテーブルを選んで席につきました。
「今度の事件の出発点はね。あの足跡のなかったという事実だよ」明智はコーヒを命じて置いて探偵談の口を切りました。
「あれには少くとも六つの可能な場合がある。第一は伯父さんや刑事が賊の足跡を見落したという解釈、賊は例えば獣類とか鳥類とかの足跡をつけて我々の目を
僕は兎も角現場を検べて見る必要を感じたので、あの翌朝早速T原へ行って見た。若しそこで第一から第四までの痕跡を発見することが出来なかったら、さしずめ第五と第六の場合が残るばかりだから、非常に捜査範囲を狭めることが出来る訳だ。ところがね、僕は現場で一つの発見をしたんだ。警察の連中は大変な見落しをやっていたのだよ。というのは、地面に沢山、何だかこう尖ったもので突いた様な跡があるんだ。尤もそれは皆伯父さん達の足跡(といっても大部分は牧田の下駄の跡)の下にかくれていて、一寸見たんでは判らないのだがね。僕はそれを見て種々想像を
明智はこう云ってコーヒを一口舐めました。そして、何だかじらす様な目附をして私を眺めるのです。併し、私には残念ながらまだ彼の推理の跡を
「で、結局どうなんだい」
私は口惜しまぎれに怒鳴りました。
「つまりね。
「牧田だって」私は思わず叫びました。「それは不合理だよ。あんな愚な、それに正直者で通って居る男が……」
「それじゃね」明智は落着いて云うのです。「君が不合理だと思う点を一つ一つ云って見給え。答えるから」
「数え切れぬ程あるよ」私は
「第一伯父は賊が大男の彼よりも二三寸も背が高かったと云っている。そうすると五尺七八寸はあった筈だ。ところが牧田は反対にあんな小っぽけな男じゃないか」
「反対もこう極端になると一寸疑って見る必要があるよ。一方は日本人としては珍しい大男で、一方は畸形に近い小男だね。これは、如何にもあざやかな対照だ。惜しいことに少しあざやか過ぎたよ。若し牧田がもう少し短い竹馬を使ったら、却って僕は迷わされたかも知れない。ハハハハハハ分るだろう。彼はね。竹馬を短くした様なものを予め現場に隠して置いてそれを手で持つ代りに両足に縛りつけて用を弁じたんだよ。闇夜で
「そんな子供
「それが例のメリンスの兵児帯なんだ。実にうまい考えだろう。あの大幅の黒いメリンスをグルグルと頭から足の先まで捲きつけりゃ、牧田の小さな身体位訳なく隠れて了うからね」
あんまり簡単な事実なので、私はすっかり馬鹿にされた様な気がしました。
「それじゃ、あの牧田が『黒手組』の手先を勤めていたとでも云うのかい。どうもおかしいね。黒手……」
「おや、まだそんな事を考えているのか、君にも似合わない、ちと今日は頭が鈍っている様だね。伯父さんにしろ、警察にしろ果ては君までも、すっかり、『黒手組』恐怖症にとッつかれているんだからね。まあ、それも時節柄無理もない話だけれど、若し君がいつもの様に冷静でいたら、何も僕を待つまでもなく、君の手で十分今度の事件は解決出来ただろうよ。これには『黒手組』なんてまるで関係ないんだ」
成程、私は頭がどうかしていたのかも知れません。こうして明智の説明を聞けば聞く程、却って真相が分らなくなって来るのです。無数の疑問が、頭の中でゴッチャになって、こんぐらがって、何から訊ねていいのか訳が分らない位です。
「じゃ、
「疑問百出の
明智はこう云って、いつかの日伯父の所から借りて来た例の「やよい」という署名の葉書を取出しました。(読者諸君、
「若しもこの暗号文がなかったら、僕はとても牧田を疑う気になれなかったに相違ない。だから、今度の発見の出発点はこの葉書だったと云ってもいい訳だ。併しこれが暗号文だと最初からハッキリ解っていたのではない。ただ疑って見たんだ。疑った訳はね、この葉書が富美子さんのいなくなる丁度前日に来ていたこと、手跡がうまく真似てはあるがどうやら男らしいこと、富美子さんがこれについて聞かれた時妙なそぶりを示したことなどもあったが、それよりもね、これを見給え、まるで原稿用紙へでも書いた様に各行十八字詰めに実に綺麗に書いてある。が、ここへ横にずっと線を引いて見るんだ」
彼はそう云いながら、鉛筆を取出して、丁度原稿用紙の横線の様なものを引きました。
「こうするとよく分る。この線に沿ってずっと横に目を通して見給え、どの列も半分位仮名が混っているだろう。ところがたった一つ例外がある。それは、この一番始めの線に沿った各行の第一字目だ、漢字ばかりじゃないか。
「ね、そうだろう」彼は鉛筆でそれを横に辿りながら説明するのです。「これはどうも偶然にしては変だ。男の文章なら兎も角、全体として仮名の方がずっと多い女の文章に、一列だけ、こんなにうまく漢字の揃う筈がないからね。兎に角僕は研究して見る価値があると思ったのだ。あの晩帰ってから一生懸命考えた。幸、以前暗号については一寸研究したことがあるので、割合楽に解けたことは、解けたがね。一つやって見ようか。先ずこの漢字の一列を拾出して考えるんだ。併しこの儘ではチーハーの文句見たいで、一向意味がない。何か漢詩か
彼は手帳を出して左の様なものを書きました。
「この数字を見ると、偏の方は十一まで、旁の方は四までしかない。これが何かの数に符合しやしないか。例えばアイウエオ五十音をどうかいう風に配列した場合の順序を示すものであるまいか。ところが、アカサタナハマヤラワンと並べて見ると、その数は
となる。『ヰ』と『ヱ』は当て字だろう。一劃の偏なんてないからア行では差支えるのでワ行を使ったのだ。果して暗号だった。ね、『明日一時新橋駅』この男却々暗号にかけては
明智はここで一寸言葉を切った。
「驚いた。だが……」
私が尚おも様々の疑点について
「まあ待ち給え」彼はそれを押えつけて置いて続けました。「僕は現場を検べると、その足で伯父さんの邸の門前へ行って牧田の出て来るのを待伏せしていた。そして、彼が使にでも行くらしい風で出て来たのを、うまくごまかしてこのカフェーへ連れ込んだ。丁度今僕等が坐っているこのテーブルだったよ。僕は彼が正直者だことは、始めから君と同様に認めていたので、今度の事件の裏には何か深い事情が潜んでいるに相違ないと睨んでいた。でね、絶対に他言しないし、
君は多分
ところで、今度は牧田の方の問題だが、これもやっぱり女出入りなのだ。可哀そうに先生涙をぽろぽろ
私は聞き終って、ほっと溜息を
「すっかりコーヒが冷えて了った。じゃ、もう帰ろうか」
やがて明智は立上りました。そして、私達は各々の帰途についたのですが、分れる前に明智は何か想出した風で、先刻伯父から貰った二千円の金包を私の方へ差出しながら云うのです。
「これをね、序の時に牧田君にやって呉れ給え。婚資にと云ってね。君、あれは可哀そうな男だよ」
私は快く承諾しました。
「人生は面白いね。この俺が今日は二組の恋人の
明智はそういって、心から愉快そうに笑うのでした。