四
そうして、遠藤の寝顔を見ている内に、三郎はふと妙なことを考えました。それは、その節穴から
併し、まさかほんとうに唾を吐きかける訳にも行きませんので、三郎は、節穴を元の通りに
彼は遠藤に対して何の恨みもないばかりか、まだ知り合いになってから、半月もたってはいないのでした。それも、偶然二人の引越しが同じ日だったものですから、それを縁に、二三度部屋を訪ね合ったばかりで別に深い交渉がある訳ではないのです。では、
ところが、今遠藤の場合は、全然
東栄館へ引越して四五日たった時分でした。三郎は
「その女とですね、僕は一度情死をしかけたことがあるのですよ。まだ学校にいた頃ですが、ホラ、僕のは医学校でしょう。薬を手に入れるのは訳ないんです。で、二人が楽に死ねる丈けの
そう云いながら、彼はフラフラと立上って、押入の所へ行き、ガタガタ襖を開けると、中に積んであった一つの
「それですよ。これっぽっちで、十分二人の人間が死ねるのですからね。……併し、あなた方、こんなこと
そして、彼の惚気話は、更らに長々と、止めどもなく続いたことですが、三郎は今、その時の毒薬のことを、計らずも思い出したのです。
「天井の節穴から、毒薬を垂らして、人殺しをする! まあ何という奇想天外な、すばらしい犯罪だろう」
彼は、この妙計に、すっかり有頂天になって了いました。よく考えて見れば、その方法は、如何にもドラマティックな丈け、可能性には乏しいものだということが分るのですが、そして又、何もこんな手数のかかることをしないでも、他にいくらも簡便な殺人法があった
先ず薬を盗み出す必要がありました。が、それは訳のないことです。遠藤の部屋を訪ねて話し込んでいれば、その内には、便所へ立つとか何とか、彼が席を外すこともあるでしょう。その暇に、見覚えのある行李から、茶色の小瓶を取出しさえすればいいのです。遠藤は、始終その行李の底を検べている訳ではないのですから、二日や三日で気の附くこともありますまい。仮令又気附かれたところで、そんな毒薬を持っていることが
そんなことをしないでも、天井から忍び込む方が楽ではないでしょうか。いやいや、それは危険です。先にも云う様に、いつ部屋の主が帰って来るか知れませんし、硝子障子の外から見られる心配もあります。第一、遠藤の部屋の天井には、三郎の所の様に、石塊で重しをした、あの抜け道がないのです。どうしてどうして、釘づけになっている天井板をはがして忍び入るなんて危険なことが出来るものですか。
さて、こうして手に入れた粉薬を、水に溶かして、鼻の病気の為に始終開きっぱなしの、遠藤の大きな口へ
併し、薬がうまく利くかどうか、遠藤の体質に対して、多すぎるか或は少な過ぎるかして、ただ苦悶する丈けで死に切らないという様なことはあるまいか。これが問題です、成程、そんなことになれば非常に残念ではありますが、でも、三郎の身に危険を及ぼす心配はないのです。というのは、節穴は元々通り蓋をして了いますし、天井裏にも、そこにはまだ
これが、三郎の屋根裏で、又部屋へ帰ってから、考え出した虫のいい理窟でした。読者は已に、仮令以上の諸点がうまく行くとしても、その外に、一つの重大な錯誤のあることに気附かれたことと思います。が、彼は愈々実行に着手するまで、不思議にも、少しもそこへ気が附かないのでした。