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坊っちゃん(11)

时间: 2017-02-02    进入日语论坛
核心提示:(十一) あくる日眼めが覚めてみると、身体中からだじゅう痛くてたまらない。久しく喧嘩けんかをしつけなかったから、こんなに
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(十一)
 あくる日が覚めてみると、身体中からだじゅう痛くてたまらない。久しく喧嘩けんかをしつけなかったから、こんなに答えるんだろう。これじゃあんまり自慢じまんもできないととこの中で考えていると、ばあさんが四国新聞を持ってきて枕元まくらもとへ置いてくれた。実は新聞を見るのも退儀たいぎなんだが、男がこれしきの事に閉口へこたれて仕様があるものかと無理に腹這はらばいになって、ながら、二頁を開けてみるとおどろいた。昨日の喧嘩がちゃんと出ている。喧嘩の出ているのは驚ろかないのだが、中学の教師堀田某ほったぼうと、近頃ちかごろ東京から赴任ふにんした生意気なる某とが、順良なる生徒を使嗾しそうしてこの騒動そうどう喚起かんきせるのみならず、両人は現場にあって生徒を指揮したる上、みだりに師範生にむかって暴行をほしいままにしたりと書いて、次にこんな意見が附記ふきしてある。本県の中学は昔時せきじより善良温順の気風をもって全国の羨望せんぼうするところなりしが、軽薄けいはくなる二豎子じゅしのために吾校わがこうの特権を毀損きそんせられて、この不面目を全市に受けたる以上は、吾人ごじん奮然ふんぜんとしてってその責任を問わざるを得ず。吾人は信ず、吾人が手を下す前に、当局者は相当の処分をこの無頼漢ぶらいかんの上に加えて、彼等かれらをして再び教育界に足を入るる余地なからしむる事を。そうして一字ごとにみんな黒点を加えて、おきゅうえたつもりでいる。おれは床の中で、くそでもらえといながら、むっくり飛び起きた。不思議な事に今まで身体の関節ふしぶしが非常に痛かったのが、飛び起きると同時に忘れたように軽くなった。
 おれは新聞を丸めて庭へげつけたが、それでもまだ気に入らなかったから、わざわざ後架こうかへ持って行っててて来た。新聞なんて無暗むやみうそくもんだ。世の中に何が一番法螺ほらくと云って、新聞ほどの法螺吹きはあるまい。おれの云ってしかるべき事をみんなむこうでならべていやがる。それに近頃東京から赴任した生意気な某とは何だ。天下に某と云う名前の人があるか。考えてみろ。これでもれっきとしたせいもあり名もあるんだ。系図が見たけりゃ、多田満仲ただのまんじゅう以来の先祖を一人ひとり残らず拝ましてやらあ。――顔を洗ったら、ほっぺたが急に痛くなった。婆さんに鏡をかせと云ったら、けさの新聞をお見たかなもしと聞く。読んで後架へ棄てて来た。欲しけりゃ拾って来いと云ったら、おどろいて引き下がった。鏡で顔を見ると昨日きのうと同じように傷がついている。これでも大事な顔だ、顔へ傷まで付けられた上へ生意気なる某などと、某呼ばわりをされればたくさんだ。
 今日の新聞に辟易へきえきして学校を休んだなどと云われちゃ一生の名折れだから、飯を食っていの一号に出頭した。出てくるやつも、出てくる奴もおれの顔を見て笑っている。何がおかしいんだ。貴様達にこしらえてもらった顔じゃあるまいし。そのうち、野だが出て来て、いや昨日はお手柄てがらで、――名誉めいよのご負傷でげすか、と送別会の時になぐった返報と心得たのか、いやにひやかしたから、余計な事を言わずに絵筆でもめていろと云ってやった。するとこりゃ恐入おそれいりやした。しかしさぞお痛い事でげしょうと云うから、痛かろうが、痛くなかろうがおれの面だ。貴様の世話になるもんかと怒鳴どなりつけてやったら、むこう側の自席へ着いて、やっぱりおれの顔を見て、となりの歴史の教師と何か内所話をして笑っている。
 それから山嵐が出頭した。山嵐の鼻に至っては、紫色むらさきいろ膨張ぼうちょうして、ったら中からうみが出そうに見える。自惚うぬぼれのせいか、おれの顔よりよっぽど手ひどくられている。おれと山嵐は机を並べて、隣り同志の近しい仲で、お負けにその机が部屋の戸口から真正面にあるんだから運がわるい。妙な顔が二つかたまっている。ほかの奴は退屈たいくつにさえなるときっとこっちばかり見る。飛んだ事でと口で云うが、心のうちではこの馬鹿ばかがと思ってるに相違そういない。それでなければああいう風に私語合ささやきあってはくすくす笑う訳がない。教場へ出ると生徒は拍手をもってむかえた。先生万歳ばんざいと云うものが二三人あった。景気がいいんだか、馬鹿にされてるんだか分からない。おれと山嵐がこんなに注意の焼点しょうてんとなってるなかに、赤シャツばかりは平常の通りそばへ来て、どうも飛んだ災難でした。僕は君等に対してお気の毒でなりません。新聞の記事は校長とも相談して、正誤を申しむ手続きにしておいたから、心配しなくてもいい。僕の弟が堀田君をさそいに行ったから、こんな事がおこったので、僕は実に申し訳がない。それでこの件についてはあくまで尽力じんりょくするつもりだから、どうかあしからず、などと半分謝罪的な言葉を並べている。校長は三時間目に校長室から出てきて、困った事を新聞がかき出しましたね。むずかしくならなければいいがと多少心配そうに見えた。おれには心配なんかない、先で免職めんしょくをするなら、免職される前に辞表を出してしまうだけだ。しかし自分がわるくないのにこっちから身を引くのは法螺吹きの新聞屋をますます増長させる訳だから、新聞屋を正誤させて、おれが意地にも務めるのが順当だと考えた。帰りがけに新聞屋に談判に行こうと思ったが、学校から取消とりけしの手続きはしたと云うから、やめた。
 おれと山嵐は校長と教頭に時間の合間を見計みはからって、嘘のないところを一応説明した。校長と教頭はそうだろう、新聞屋が学校にうらみをいだいて、あんな記事をことさらにかかげたんだろうと論断した。赤シャツはおれ等の行為こういを弁解しながら控所ひかえじょを一人ごとにまわってあるいていた。ことに自分の弟が山嵐を誘い出したのを自分の過失であるかのごとく吹聴ふいちょうしていた。みんなは全く新聞屋がわるい、しからん、両君は実に災難だと云った。
 帰りがけに山嵐は、君赤シャツはくさいぜ、用心しないとやられるぜと注意した。どうせ臭いんだ、今日から臭くなったんじゃなかろうと云うと、君まだ気が付かないか、きのうわざわざ、僕等を誘い出して喧嘩のなかへ、んだのは策だぜと教えてくれた。なるほどそこまでは気がつかなかった。山嵐は粗暴そぼうなようだが、おれより智慧ちえのある男だと感心した。
「ああやって喧嘩をさせておいて、すぐあとから新聞屋へ手を廻してあんな記事をかかせたんだ。実に奸物かんぶつだ」
「新聞までも赤シャツか。そいつは驚いた。しかし新聞が赤シャツの云う事をそう容易たやすくかね」
「聴かなくって。新聞屋に友達が居りゃ訳はないさ」
「友達が居るのかい」
「居なくても訳ないさ。嘘をついて、事実これこれだと話しゃ、すぐ書くさ」
「ひどいもんだな。本当に赤シャツの策なら、僕等はこの事件で免職になるかも知れないね」
「わるくすると、られるかも知れない」
「そんなら、おれは明日あした辞表を出してすぐ東京へ帰っちまわあ。こんな下等な所にたのんだって居るのはいやだ」
「君が辞表を出したって、赤シャツは困らない」
「それもそうだな。どうしたら困るだろう」
「あんな奸物の遣る事は、何でも証拠しょうこの挙がらないように、挙がらないようにと工夫するんだから、反駁はんばくするのはむずかしいね」
厄介やっかいだな。それじゃ濡衣ぬれぎぬを着るんだね。面白おもしろくもない。天道是耶非てんどうぜかひかだ」
「まあ、もう二三日様子を見ようじゃないか。それでいよいよとなったら、温泉の町で取っておさえるより仕方がないだろう」
「喧嘩事件は、喧嘩事件としてか」
「そうさ。こっちはこっちで向うの急所を抑えるのさ」
「それもよかろう。おれは策略は下手へたなんだから、万事よろしく頼む。いざとなれば何でもする」
 俺と山嵐はこれでわかれた。赤シャツがはたたして山嵐の推察通りをやったのなら、実にひどい奴だ。到底とうてい智慧比べで勝てる奴ではない。どうしても腕力わんりょくでなくっちゃ駄目だめだ。なるほど世界に戦争は絶えない訳だ。個人でも、とどのつまりは腕力だ。
 あくる日、新聞のくるのを待ちかねて、ひらいてみると、正誤どころか取り消しも見えない。学校へ行ってたぬき催促さいそくすると、あしたぐらい出すでしょうと云う。明日になって六号活字で小さく取消が出た。しかし新聞屋の方で正誤は無論しておらない。また校長に談判すると、あれより手続きのしようはないのだと云う答だ。校長なんて狸のような顔をして、いやにフロック張っているが存外無勢力なものだ。虚偽きょぎの記事を掲げた田舎新聞一つあやまらせる事が出来ない。あんまり腹が立ったから、それじゃ私が一人で行って主筆に談判すると云ったら、それはいかん、君が談判すればまた悪口を書かれるばかりだ。つまり新聞屋にかかれた事は、うそにせよ、本当にせよ、つまりどうする事も出来ないものだ。あきらめるより外に仕方がないと、坊主の説教じみた説諭せつゆを加えた。新聞がそんな者なら、一日も早くつぶしてしまった方が、われわれの利益だろう。新聞にかかれるのと、泥鼈すっぽんに食いつかれるとが似たり寄ったりだとは今日こんにちただ今狸の説明によって始めて承知つかまつった。
 それから三日ばかりして、ある日の午後、山嵐が憤然ふんぜんとやって来て、いよいよ時機が来た、おれは例の計画を断行するつもりだと云うから、そうかそれじゃおれもやろうと、即座そくざに一味徒党に加盟した。ところが山嵐が、君はよす方がよかろうと首をかたむけた。なぜと聞くと君は校長に呼ばれて辞表を出せと云われたかとたずねるから、いや云われない。君は? と聴き返すと、今日校長室で、まことに気の毒だけれども、事情やむをえんから処決しょけつしてくれと云われたとの事だ。
「そんな裁判はないぜ。狸は大方腹鼓はらつづみたたき過ぎて、胃の位置が顛倒てんどうしたんだ。君とおれは、いっしょに、祝勝会へ出てさ、いっしょに高知のぴかぴかおどりを見てさ、いっしょに喧嘩をとめにはいったんじゃないか。辞表を出せというなら公平に両方へ出せと云うがいい。なんで田舎いなかの学校はそう理窟りくつが分らないんだろう。焦慮じれったいな」
「それが赤シャツの指金さしがねだよ。おれと赤シャツとは今までの行懸ゆきがかり上到底とうてい両立しない人間だが、君の方は今の通り置いても害にならないと思ってるんだ」
「おれだって赤シャツと両立するものか。害にならないと思うなんて生意気だ」
「君はあまり単純過ぎるから、置いたって、どうでも胡魔化ごまかされると考えてるのさ」
「なお悪いや。だれが両立してやるものか」
「それに先だって古賀が去ってから、まだ後任が事故のために到着とうちゃくしないだろう。その上に君と僕を同時に追い出しちゃ、生徒の時間に明きが出来て、授業にさしつかえるからな」
「それじゃおれをあいのくさびに一席うかがわせる気なんだな。こん畜生ちくしょう、だれがその手に乗るものか」
 翌日あくるひおれは学校へ出て校長室へ入って談判を始めた。
「何で私に辞表を出せと云わないんですか」
「へえ?」と狸はあっけに取られている。
「堀田には出せ、私には出さないでいと云う法がありますか」
「それは学校の方の都合つごうで……」
「その都合が間違まちがってまさあ。私が出さなくって済むなら堀田だって、出す必要はないでしょう」
「その辺は説明が出来かねますが――堀田君は去られてもやむをえんのですが、あなたは辞表をお出しになる必要を認めませんから」
 なるほど狸だ、要領を得ない事ばかり並べて、しかも落ち付きはらってる。おれは仕様がないから
「それじゃ私も辞表を出しましょう。堀田君一人辞職させて、私が安閑あんかんとして、留まっていられると思っていらっしゃるかも知れないが、私にはそんな不人情な事は出来ません」
「それは困る。堀田も去りあなたも去ったら、学校の数学の授業がまるで出来なくなってしまうから……」
「出来なくなっても私の知った事じゃありません」
「君そう我儘わがままを云うものじゃない、少しは学校の事情も察してくれなくっちゃ困る。それに、来てから一月立つか立たないのに辞職したと云うと、君の将来の履歴りれきに関係するから、その辺も少しは考えたらいいでしょう」
「履歴なんか構うもんですか、履歴より義理が大切です」
「そりゃごもっとも――君の云うところは一々ごもっともだが、わたしの云う方も少しは察して下さい。君が是非辞職すると云うなら辞職されてもいいから、代りのあるまでどうかやってもらいたい。とにかく、うちでもう一返考え直してみて下さい」
 考え直すって、直しようのない明々白々たる理由だが、狸があおくなったり、赤くなったりして、可愛想かわいそうになったからひとまず考え直す事として引き下がった。赤シャツには口もきかなかった。どうせ遣っつけるならかためて、うんと遣っつける方がいい。
 山嵐に狸と談判した模様を話したら、大方そんな事だろうと思った。辞表の事はいざとなるまでそのままにしておいても差支さしつかえあるまいとの話だったから、山嵐の云う通りにした。どうも山嵐の方がおれよりも利巧りこうらしいから万事山嵐の忠告に従う事にした。
 山嵐はいよいよ辞表を出して、職員一同に告別の挨拶あいさつをしてはまの港屋までさがったが、人に知れないように引き返して、温泉の町の枡屋ますやの表二階へひそんで、障子しょうじへ穴をあけてのぞき出した。これを知ってるものはおればかりだろう。赤シャツがしのんで来ればどうせ夜だ。しかもよいの口は生徒やその他の目があるから、少なくとも九時過ぎにきまってる。最初の二晩はおれも十一時ごろまで張番はりばんをしたが、赤シャツのかげも見えない。三日目には九時から十時半まで覗いたがやはり駄目だ。駄目をんで夜なかに下宿へ帰るほど馬鹿気た事はない。四五日しごんちすると、うちの婆さんが少々心配を始めて、おくさんのおありるのに、夜遊びはおやめたがええぞなもしと忠告した。そんな夜遊びとは夜遊びが違う。こっちのは天に代って誅戮ちゅうりくを加える夜遊びだ。とはいうものの一週間も通って、少しもげんが見えないと、いやになるもんだ。おれは性急せっかちな性分だから、熱心になると徹夜てつやでもして仕事をするが、その代り何によらず長持ちのした試しがない。いかに天誅党でもきる事に変りはない。六日目には少々いやになって、七日目にはもう休もうかと思った。そこへ行くと山嵐は頑固がんこなものだ。よいから十二時すぎまでは眼を障子へつけて、角屋の丸ぼやの瓦斯燈がすとうの下をにらめっきりである。おれが行くと今日は何人客があって、とまりが何人、女が何人といろいろな統計を示すのには驚ろいた。どうも来ないようじゃないかと云うと、うん、たしかに来るはずだがと時々腕組うでぐみをして溜息ためいきをつく。可愛想に、もし赤シャツがここへ一度来てくれなければ、山嵐は、生涯しょうがい天誅を加える事は出来ないのである。
 八日目には七時頃から下宿を出て、まずゆるりと湯に入って、それから町で鶏卵けいらんを八つ買った。これは下宿の婆さんの芋責いもぜめに応ずる策である。その玉子を四つずつ左右のたもとへ入れて、例の赤手拭あかてぬぐいかたへ乗せて、懐手ふところでをしながら、枡屋ますや楷子段はしごだんを登って山嵐の座敷ざしきの障子をあけると、おい有望有望と韋駄天いだてんのような顔は急に活気をていした。昨夜ゆうべまでは少しふさぎの気味で、はたで見ているおれさえ、陰気臭いんきくさいと思ったくらいだが、この顔色を見たら、おれも急にうれしくなって、何も聞かない先から、愉快ゆかい愉快と云った。
「今夜七時半頃あの小鈴こすずと云う芸者が角屋へはいった」
「赤シャツといっしょか」
「いいや」
「それじゃ駄目だ」
「芸者は二人づれだが、――どうも有望らしい」
「どうして」
「どうしてって、ああ云うずるい奴だから、芸者を先へよこして、後から忍んでくるかも知れない」
「そうかも知れない。もう九時だろう」
「今九時十二分ばかりだ」と帯の間からニッケル製の時計を出して見ながら云ったが「おい洋燈らんぷを消せ、障子へ二つ坊主頭が写ってはおかしい。きつねはすぐ疑ぐるから」
 おれは一貫張いっかんばりの机の上にあった置き洋燈らんぷをふっと吹きけした。星明りで障子だけは少々あかるい。月はまだ出ていない。おれと山嵐は一生懸命いっしょうけんめいに障子へかおをつけて、息をらしている。チーンと九時半の柱時計が鳴った。
「おい来るだろうかな。今夜来なければ僕はもういやだぜ」
「おれは銭のつづく限りやるんだ」
「銭っていくらあるんだい」
「今日までで八日分五円六十銭払った。いつ飛び出しても都合つごうのいいように毎晩勘定かんじょうするんだ」
「それは手廻しがいい。宿屋で驚いてるだろう」
「宿屋はいいが、気が放せないから困る」
「その代り昼寝ひるねをするだろう」
「昼寝はするが、外出が出来ないんで窮屈きゅうくつでたまらない」
「天誅も骨が折れるな。これで天網恢々疎てんもうかいかいそにしてらしちまったり、何かしちゃ、つまらないぜ」
「なに今夜はきっとくるよ。――おい見ろ見ろ」と小声になったから、おれは思わずどきりとした。黒い帽子ぼうしいただいた男が、角屋の瓦斯燈を下から見上げたまま暗い方へ通り過ぎた。違っている。おやおやと思った。そのうち帳場の時計が遠慮えんりょなく十時を打った。今夜もとうとう駄目らしい。
 世間は大分静かになった。遊廓ゆうかくで鳴らす太鼓たいこが手に取るようにきこえる。月が温泉の山のうしろからのっと顔を出した。往来はあかるい。すると、しもの方から人声が聞えだした。窓から首を出す訳には行かないから、姿をき留める事は出来ないが、だんだん近づいて来る模様だ。からんからんと駒下駄こまげたを引きる音がする。眼をななめにするとやっと二人の影法師かげぼうしが見えるくらいに近づいた。
「もう大丈夫だいじょうぶですね。邪魔じゃまものは追っ払ったから」まさしく野だの声である。「強がるばかりで策がないから、仕様がない」これは赤シャツだ。「あの男もべらんめえに似ていますね。あのべらんめえと来たら、勇みはだっちゃんだから愛嬌あいきょうがありますよ」「増給がいやだの辞表を出したいのって、ありゃどうしても神経に異状があるに相違ない」おれは窓をあけて、二階から飛び下りて、思う様ちのめしてやろうと思ったが、やっとの事で辛防しんぼうした。二人はハハハハと笑いながら、瓦斯燈の下をくぐって、角屋の中へはいった。
「おい」
「おい」
「来たぜ」
「とうとう来た」
「これでようやく安心した」
「野だの畜生、おれの事を勇み肌の坊っちゃんだとかしやがった」
「邪魔物と云うのは、おれの事だぜ。失敬千万な」
 おれと山嵐は二人の帰路を要撃ようげきしなければならない。しかし二人はいつ出てくるか見当がつかない。山嵐は下へ行って今夜ことによると夜中に用事があって出るかも知れないから、出られるようにしておいてくれとたのんで来た。今思うと、よく宿のものが承知したものだ。大抵たいていなら泥棒どろぼうと間違えられるところだ。
 赤シャツの来るのを待ち受けたのはつらかったが、出て来るのをじっとして待ってるのはなおつらい。寝る訳には行かないし、始終障子のすきから睨めているのもつらいし、どうも、こうも心が落ちつかなくって、これほど難儀なんぎな思いをした事はいまだにない。いっその事角屋へ踏み込んで現場を取っておさえようと発議ほつぎしたが、山嵐は一言にして、おれの申し出をしりぞけた。自分共が今時分飛び込んだって、乱暴者だと云って途中とちゅうさえぎられる。訳を話して面会を求めれば居ないとげるか別室へ案内をする。不用意のところへ踏み込めると仮定したところで何十とある座敷のどこに居るか分るものではない、退屈でも出るのを待つより外に策はないと云うから、ようやくの事でとうとう朝の五時まで我慢がまんした。
 角屋から出る二人の影を見るや否や、おれと山嵐はすぐあとをけた。一番汽車はまだないから、二人とも城下まであるかなければならない。温泉の町をはずれると一丁ばかりの杉並木すぎなみきがあって左右は田圃たんぼになる。それを通りこすとここかしこに藁葺わらぶきがあって、はたけの中を一筋に城下まで通る土手へ出る。町さえはずれれば、どこで追いついても構わないが、なるべくなら、人家のない、杉並木でつらまえてやろうと、見えがくれについて来た。町をはずれると急にあしの姿勢で、はやてのように後ろから、追いついた。何が来たかと驚ろいてり向く奴を待てと云って肩に手をかけた。野だは狼狽ろうばいの気味で逃げ出そうという景色けしきだったから、おれが前へ廻って行手をふさいでしまった。
「教頭の職を持ってるものが何で角屋へ行ってとまった」と山嵐はすぐなじりかけた。
「教頭は角屋へ泊ってるいという規則がありますか」と赤シャツは依然いぜんとして鄭寧ていねいな言葉を使ってる。顔の色は少々蒼い。
取締上とりしまりじょう不都合だから、蕎麦屋そばや団子屋だんごやへさえはいってはいかんと、云うくらい謹直きんちょくな人が、なぜ芸者といっしょに宿屋へとまり込んだ」野だは隙を見ては逃げ出そうとするからおれはすぐ前に立ち塞がって「べらんめえの坊っちゃんた何だ」と怒鳴り付けたら、「いえ君の事を云ったんじゃないんです、全くないんです」と鉄面皮に言訳がましい事をぬかした。おれはこの時気がついてみたら、両手で自分の袂をにぎってる。追っかける時に袂の中の卵がぶらぶらして困るから、両手で握りながら来たのである。おれはいきなり袂へ手を入れて、玉子を二つ取り出して、やっと云いながら、野だの面へたたきつけた。玉子がぐちゃりと割れて鼻の先から黄味がだらだら流れだした。野だはよっぽど仰天ぎょうてんした者と見えて、わっと言いながら、尻持しりもちをついて、助けてくれと云った。おれは食うために玉子は買ったが、つけるために袂へ入れてる訳ではない。ただ肝癪かんしゃくのあまりに、ついぶつけるともなしに打つけてしまったのだ。しかし野だが尻持を突いたところを見て始めて、おれの成功した事に気がついたから、こん畜生ちくしょう、こん畜生と云いながら残る六つを無茶苦茶にたたきつけたら、野だは顔中黄色になった。
 おれが玉子をたたきつけているうち、山嵐と赤シャツはまだ談判最中である。
「芸者をつれて僕が宿屋へ泊ったと云う証拠しょうこがありますか」
「宵に貴様のなじみの芸者が角屋へはいったのを見て云う事だ。胡魔化せるものか」
「胡魔化す必要はない。僕は吉川君と二人で泊ったのである。芸者が宵にはいろうが、はいるまいが、僕の知った事ではない」
「だまれ」と山嵐は拳骨げんこつを食わした。赤シャツはよろよろしたが「これは乱暴だ、狼藉ろうぜきである。理非を弁じないで腕力に訴えるのは無法だ」
「無法でたくさんだ」とまたぽかりとぐる。「貴様のような奸物はなぐらなくっちゃ、答えないんだ」とぽかぽかなぐる。おれも同時に野だを散々に擲き据えた。しまいには二人とも杉の根方にうずくまって動けないのか、眼がちらちらするのか逃げようともしない。
「もうたくさんか、たくさんでなけりゃ、まだなぐってやる」とぽかんぽかんと両人ふたりでなぐったら「もうたくさんだ」と云った。野だに「貴様もたくさんか」と聞いたら「無論たくさんだ」と答えた。
「貴様等は奸物だから、こうやって天誅を加えるんだ。これにりて以来つつしむがいい。いくら言葉たくみに弁解が立っても正義は許さんぞ」と山嵐が云ったら両人共ふたりともだまっていた。ことによると口をきくのが退儀たいぎなのかも知れない。
「おれは逃げもかくれもせん。今夜五時までは浜の港屋に居る。用があるなら巡査じゅんさなりなんなり、よこせ」と山嵐が云うから、おれも「おれも逃げも隠れもしないぞ。堀田と同じ所に待ってるから警察へうったえたければ、勝手に訴えろ」と云って、二人してすたすたあるき出した。
 おれが下宿へ帰ったのは七時少し前である。部屋へはいるとすぐ荷作りを始めたら、婆さんが驚いて、どうおしるのぞなもしと聞いた。お婆さん、東京へ行って奥さんを連れてくるんだと答えて勘定を済まして、すぐ汽車へ乗って浜へ来て港屋へ着くと、山嵐は二階で寝ていた。おれは早速辞表を書こうと思ったが、何と書いていいか分らないから、私儀わたくしぎ都合有之これあり辞職の上東京へ帰り申候もうしそろにつき左様御承知被下度候さようごしょうちくだされたくそろ以上とかいて校長あてにして郵便で出した。
 汽船は夜六時の出帆しゅっぱんである。山嵐もおれも疲れて、ぐうぐう寝込んで眼が覚めたら、午後二時であった。下女に巡査は来ないかと聞いたら参りませんと答えた。「赤シャツも野だも訴えなかったなあ」と二人は大きに笑った。
 その夜おれと山嵐はこの不浄ふじょうな地をはなれた。船が岸を去れば去るほどいい心持ちがした。神戸から東京までは直行で新橋へ着いた時は、ようやく娑婆しゃばへ出たような気がした。山嵐とはすぐ分れたぎり今日まで逢う機会がない。
 きよの事を話すのを忘れていた。――おれが東京へ着いて下宿へも行かず、革鞄かばんを提げたまま、清や帰ったよと飛び込んだら、あら坊っちゃん、よくまあ、早く帰って来て下さったとなみだをぽたぽたと落した。おれもあまりうれしかったから、もう田舎いなかへは行かない、東京で清とうちを持つんだと云った。
 その後ある人の周旋しゅうせん街鉄がいてつの技手になった。月給は二十五円で、家賃は六円だ。清は玄関げんかん付きの家でなくっても至極満足の様子であったが気の毒な事に今年の二月肺炎はいえんかかって死んでしまった。死ぬ前日おれを呼んで坊っちゃん後生だから清が死んだら、坊っちゃんのお寺へめて下さい。お墓のなかで坊っちゃんの来るのを楽しみに待っておりますと云った。だから清の墓は小日向こびなたの養源寺にある。
(明治三十九年四月)
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