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こころ(上) 先生と私(29)

时间: 2017-10-28    进入日语论坛
核心提示:二十九 先生の談話は、この犬と小供のために、結末まで進行する事ができなくなったので、私はついにその要領を得ないでしまった
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二十九
 
 先生の談話は、この犬と小供のために、結末まで進行する事ができなくなったので、私はついにその要領を得ないでしまった。先生の気にする財産云々(うんぬん)の掛念(けねん)はその時の私(わたくし)には全くなかった。私の性質として、また私の境遇からいって、その時の私には、そんな利害の念に頭を悩ます余地がなかったのである。考えるとこれは私がまだ世間に出ないためでもあり、また実際その場に臨まないためでもあったろうが、とにかく若い私にはなぜか金の問題が遠くの方に見えた。
 先生の話のうちでただ一つ底まで聞きたかったのは、人間がいざという間際に、誰でも悪人になるという言葉の意味であった。単なる言葉としては、これだけでも私に解(わか)らない事はなかった。しかし私はこの句についてもっと知りたかった。
 犬と小供(こども)が去ったあと、広い若葉の園は再び故(もと)の静かさに帰った。そうして我々は沈黙に鎖(と)ざされた人のようにしばらく動かずにいた。うるわしい空の色がその時次第に光を失って来た。眼の前にある樹(き)は大概楓(かえで)であったが、その枝に滴(したた)るように吹いた軽い緑の若葉が、段々暗くなって行くように思われた。遠い往来を荷車を引いて行く響きがごろごろと聞こえた。私はそれを村の男が植木か何かを載せて縁日(えんにち)へでも出掛けるものと想像した。先生はその音を聞くと、急に瞑想(めいそう)から呼息(いき)を吹き返した人のように立ち上がった。
「もう、そろそろ帰りましょう。大分(だいぶ)日が永くなったようだが、やっぱりこう安閑としているうちには、いつの間にか暮れて行くんだね」
 先生の背中には、さっき縁台の上に仰向(あおむ)きに寝た痕(あと)がいっぱい着いていた。私は両手でそれを払い落した。
「ありがとう。脂(やに)がこびり着いてやしませんか」
「綺麗(きれい)に落ちました」
「この羽織はつい此間(こないだ)拵(こしら)えたばかりなんだよ。だからむやみに汚して帰ると、妻(さい)に叱(しか)られるからね。有難う」
 二人はまただらだら坂(ざか)の中途にある家(うち)の前へ来た。はいる時には誰もいる気色(けしき)の見えなかった縁(えん)に、お上(かみ)さんが、十五、六の娘を相手に、糸巻へ糸を巻きつけていた。二人は大きな金魚鉢の横から、「どうもお邪魔(じゃま)をしました」と挨拶(あいさつ)した。お上さんは「いいえお構(かま)い申しも致しませんで」と礼を返した後(あと)、先刻(さっき)小供にやった白銅(はくどう)の礼を述べた。
 門口(かどぐち)を出て二、三町(ちょう)来た時、私はついに先生に向かって口を切った。
「さきほど先生のいわれた、人間は誰(だれ)でもいざという間際に悪人になるんだという意味ですね。あれはどういう意味ですか」
「意味といって、深い意味もありません。――つまり事実なんですよ。理屈じゃないんだ」
「事実で差支(さしつか)えありませんが、私の伺いたいのは、いざという間際という意味なんです。一体どんな場合を指すのですか」
 先生は笑い出した。あたかも時機(じき)の過ぎた今、もう熱心に説明する張合いがないといった風(ふう)に。
「金(かね)さ君。金を見ると、どんな君子(くんし)でもすぐ悪人になるのさ」
 私には先生の返事があまりに平凡過ぎて詰(つま)らなかった。先生が調子に乗らないごとく、私も拍子抜けの気味であった。私は澄ましてさっさと歩き出した。いきおい先生は少し後(おく)れがちになった。先生はあとから「おいおい」と声を掛けた。
「そら見たまえ」
「何をですか」
「君の気分だって、私の返事一つですぐ変るじゃないか」
 待ち合わせるために振り向いて立(た)ち留(ど)まった私の顔を見て、先生はこういった。
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