劇烈な三面記事を、写真版にして引き伸ばしたような小説を、のべつに五六冊読んだら、全く厭になった。飯を食っていても、生活難が飯といっしょに胃の腑まで押し寄せて来そうでならない。腹が張れば、腹がせっぱ詰って、いかにも苦しい。そこで帽子を被って空谷子の所へ行った。この空谷子と云うのは、こういう時に、話しをするのに都合よく出来上った、哲学者みたような占者みたような、妙な男である。無辺際の空間には、地球より大きな火事がところどころにあって、その火事の報知が吾々の眼に伝わるには、百年もかかるんだからなあと云って、神田の火事を馬鹿にした男である。もっとも神田の火事で空谷子の家が焼けなかったのはたしかな事実である。
空谷子は小さな角火鉢に倚れて、真鍮の火箸で灰の上へ、しきりに何か書いていた。どうだね、相変らず考え込んでるじゃないかと云うと、さも面倒くさそうな顔つきをして、うん今金の事を少し考えているところだと答えた。せっかく空谷子の所へ来て、また金の話なぞを聞かされてはたまらないから、黙ってしまった。すると空谷子が、さも大発見でもしたように、こう云った。
「金は魔物だね」
空谷子の警句としてははなはだ陳腐だと思ったから、そうさね、と云ったぎり相手にならずにいた。空谷子は火鉢の灰の中に大きな丸を描いて、君ここに金があるとするぜ、と丸の真中を突ッついた。
「これが何にでも変化する。衣服にもなれば、食物にもなる。電車にもなれば宿屋にもなる」
「下らんな。知れ切ってるじゃないか」
「否、知れ切っていない。この丸がね」とまた大きな丸を描いた。
「この丸が善人にもなれば悪人にもなる。極楽へも行く、地獄へも行く。あまり融通が利き過ぎるよ。まだ文明が進まないから困る。もう少し人類が発達すると、金の融通に制限をつけるようになるのは分り切っているんだがな」
「どうして」
「どうしても好いが、――例えば金を五色に分けて、赤い金、青い金、白い金などとしても好かろう」
「そうして、どうするんだ」
「どうするって。赤い金は赤い区域内だけで通用するようにする。白い金は白い区域内だけで使う事にする。もし領分外へ出ると、瓦の破片同様まるで幅が利かないようにして、融通の制限をつけるのさ」
もし空谷子が初対面の人で、初対面の最先からこんな話をしかけたら、自分は空谷子をもって、あるいは脳の組織に異状のある論客と認めたかも知れない。しかし空谷子は地球より大きな火事を想像する男だから、安心してその訳を聞いて見た。空谷子の答はこうであった。
「金はある部分から見ると、労力の記号だろう。ところがその労力がけっして同種類のものじゃないから、同じ金で代表さして、彼是相通ずると、大変な間違になる。例えば僕がここで一万噸の石炭を掘ったとするぜ。その労力は器械的の労力に過ぎないんだから、これを金に代えたにしたところが、その金は同種類の器械的の労力と交換する資格があるだけじゃないか。しかるに一度この器械的の労力が金に変形するや否や、急に大自在の神通力を得て、道徳的の労力とどんどん引き換えになる。そうして、勝手次第に精神界が攪乱されてしまう。不都合極まる魔物じゃないか。だから色分にして、少しその分を知らしめなくっちゃいかんよ」
自分は色分説に賛成した。それからしばらくして、空谷子に尋ねて見た。
「器械的の労力で道徳的の労力を買収するのも悪かろうが、買収される方も好かあないんだろう」
「そうさな。今のような善知善能の金を見ると、神も人間に降参するんだから仕方がないかな。現代の神は野蛮だからな」
自分は空谷子と、こんな金にならない話をして帰った。