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おはなし

时间: 2020-12-13    进入日语论坛
核心提示: 私はこの学校は初めてで――エー来るのは始めてだけれどもご依頼を受けたのは、決して、初めてではありません。 二三年前、田
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 私はこの学校は初めてで――エー来るのは始めてだけれどもご依頼を受けたのは、決して、初めてではありません。
 二三年前、田中さん(田中喜一、東京高等工業学校教授)から頼まれたのです。その頃、頼みに来て下さった方は、もうご卒業なさったでしょう。それ以来、数十回のご依頼を受けましたがみんなおことわりしました。ことわるのは面白いからではなく、()むを得ないからで、この止むを得ない事が、度重(たびかさ)なっておきのどくなのでその結果今日やって来ました。言わば根くらべで根がつきて出て来たようなしまつ、面白い話もできかねます。今からとにかく一時間ばかり、話します。それゆえ、題なんかありません。
 私は専門があなた方とは全然ちがっています。こんな機会でなければ、顔を(あわ)すことはありませんが、これでも私は工業の部門に属する専門家になろうとした事がありました。私は建築家になろうと思いました。なぜっていうような問題ではない、けれども話のついでに話します。
 まだ小供のとき、財産がなかったので、一人で食わなければならないという事は知っていました。忙がしくなく時間づくめでなくて、飯が食えるという事について非常になやみました。しかし立派な技術を持ってれば変人でも、頑固(がんこ)でも人が頼むだろうと思いました。佐々木東洋という医者があります。この医者が大へんな変人で、患者をまるで玩具(おもちゃ)か人形のように扱かう愛嬌(あいきょう)のない人です。それで、はやらないかといえば不思議なほどはやって門前(もんぜん)(いち)をなすありさまです。あんな無愛想な人があれだけはやるのは、やはり技術があるからだと思いました。ゆえに建築家になったら、私も門前市をなすだろうと思いました。高等学校時分の事でした、親友に米山保三郎という人、夭折(ようせつ)しましたが、この人が説諭(せつゆ)しました。その説諭に曰く、セントポールのような家は我国にははやらない。くだらない家を建てるよりは文学者になれといいました。当人が文学者になれというたのはよほどの自信があったからでしょう。私はそれでふっつりやめました。私の(かんがえ)は金をとって、門前市をなして、頑固で、変人で、というのでしたけれども、米山は私よりは大変えらいような気がした。二人くらべると私がいかにもちっぽけなように思われたので、今までの考を止めました。そして文学者になりました。その結果は――分りません、恐らく死ぬまで分らないでしょう。それでこういう方面に入ったので、あなた方は専門としては、この方面ではないけれども、この会は文芸の会で、ベルグソンなども出るようですからこの事については共通しているようにも思われます。よく講演なんていうと西洋人の名前なんか出てきてききにくい人もあるようですが、私の今日のお話には片仮名の名前なんか一つもでてきません。
 私はかつてある所で頼まれて講演したとき、日本現代の開化という題で話しました。今日は題はない、分らなかったから、(こしら)えません。
 その講演のとき開化の definition を定めました。開化とは人間の energy で、これが二つの異った方向に()びて行ったのが、入り乱れてできたので、その一つは活力の表顕(ひょうけん)、あるいは実顕といって energy を節約せんとする吾人の努力、他の一つは energy を消耗せんとする consumption of energy である。この二つが大なる factor でこれ以外には、何もない。ゆえにこの二つのものは開化の factor として sufficient and necessary である。それで第一の活力を節約せんとする努力は種々の方向へ出るが、まず距離をつめる、時間を節約する。手でやれば一時間かかる事も、機械で三十分でやってしまう。あるいは手でやれば一時間かかって一つできるところを、十も二十もつくることが、吾々の生活の便を計るのです。これがあなた方の専門のもので、他の factor すなわち consumption of energy の努力は積極的のもので、ある人から見れば、国力等の立場より見なして消極的に誤解されてる文学、美術、音楽、劇等なくてすむものであります、しかもありたいものなのです。これらは幾分か片方で切りつめてこの余った energy をこの方に向ける、どちらかといえば(おし)のふとい方なのです。私などはこの方面へ向って行く、この方面からいえば時間距離なんていう考はありません、飛行機――飛行機のような早いものの必要もなく、堅牢(けんろう)なものの必要もなく、数でこなす必要もない。生涯にたった一つだっていいのを書けばいいのです。
 すなわちあなた方とはかく反対になっているのです。二つのものの性質を概括していうときは、あなた方の方は規律で行き、私どもの方は不規律で行く。その代り報酬はごく悪い。金持になる人なりたい人は、規律に服従せねばならない。
 あなた方の方は mechanical science の応用で私どもの方は mental なのだから割がいいようだ。けれども実は大変に損をしているのです。しかしあなた方は自由が少いが私どもは自由というものがなければできない仕事であります。なおいいかうればあなた方は仕事に服従して我というものをなくなさなければできないのです。各自個々勝手な方面へ行ったなら、仕事はできない。私どもの方は我を発揮せなければ、何もできませぬ。
 そこで、あなた方の方でする仕事というものを見ると普遍的すなわち universal の性質を持っている。私どもの方は universal でなくて personal の性質を持っています。なお敷衍(ふえん)していえばあなた方はまず公式を頭の中に入れて、その application が必要である。それは人間が考えたものにちがいないけれども、私がこのものがいやだというても御免こうむることはできない。universal ということは personality という個人としての人格じゃなく、personality を eliminate し得る仕事なのです。この鉄道は誰が敷設(ふせつ)したという事は素人にはあまり参考になりません。この講堂は誰が作ったって問題にならない。あすこにぶらさがってるランプだか、電気だか何だか知らないが、これには何の personality もない。すなわち自然の法則を apply しただけなのであります。
 しからば我々の文芸は法則を全然無視してるかというと、そうでもない。ベルグソンの哲学には一種の法則みたいなのがある。フランスでは、ベルグソンを立場として、フランスの文芸が近頃出てきている。吾々の方でも sex の問題とか naturalism とか世間に知れわたった法則等から出立(しゅったつ)し得るもの、その abstract の輪郭を(えが)いてその中につめこんだのでは生きて来ない。内から発生した事にならない、(こしら)えたものになる。この方面からいえば、abstract からは出立されないのです。しからば文芸者の造ったものから一つの法則を reduce することはできないかというとできる。それは作者が、天然自然に書いたものを他の人が見てそれに philosophical の解釈を与えたときに、その作物の中からつかみ出されるというので始めから法則をつかまえて、それから肉をつけるというのではありません。吾々の方でも時には法則が必要です。なぜに必要であるかといえばこれがために作物の depth が出てくるという問題になるからである。あなた方の法則は universal のものであるが吾々のものは personality の奥に law があるのです。というのはすでに出来た作物を読む人々の頭の間をつなぐ共通のあるものがあった時そこに abstract の law が存在しているのです。
 personal のものが universal の者でなくとも、百人なり二百人なりの読者を得たとき、その読者の頭をつなぐ共通なものが、なくてはならぬ。このものが一つの law である。
 文芸は law によって govern されてはいけない。personal である。free である。しからばまるで、無茶なものかというと、決してさようではない。かようにあなた方の出発点と、吾々文芸家の出発点とは違っている。
 そのものの性質よりいえば、吾々の方のものは personal のもので、作物を見て、作った人に思い及ぶ、電車の軌道(きどう)は誰が引いたかと考うる必要はないが、芸術家のものであるとき、誰が作ったということがじき問題になる。したがって製作品に対する情緒がこれにうつって行って作物に対する好厭の念が、作家にうつって行く。なおひろがって作家自身の好厭となり結局道徳的の問題となる。それゆえ作物から当然得べき感情が作家に及ぼして、しまいには justice という事がなくなって贔負(ひいき)というものができる。芸人にはこの贔負が特にはなはだしい。相撲(すもう)なんかそれです。私の友人に相撲のすきな人がある、この人は勝った方がすきだと申します。この人なんか正義な人で、公平で、決して贔負ではない。贔負になるとこんな事ができない。かく芸を離れて当人になってくるのは角力(すもう)か役者に多い。作物になるとさほどでもないようにも見える。
 これほどまでに芸術とか文芸とかいうものは personal である。personal であるから自己に重きを置く。主がなくなったら personal のなくなるのはあたり前だけれども、自己がなくなれば、芸術はだめである。
 あなた方が(たっと)ぶことは、(おのれ)でなくして腕である。腕さえあれば能事(のうじ)(おわ)れりというてもよい。工場では人間はいらないほどあってもその人間は機械の一部分のようなものである。mechanical に働く機械よりも、巧妙に働く腕が必要である。が吾々の方は人間であるという事が大切なので、社会上よりいうときは、お互に社会の一員であるけれども吾々の方は人間という事が大事になる。
 ところがここに腕の人でもなく頭の人でもない一種の人がある。資本家というものでこの capitalist になると腕も人間も大切でなく金が大切なのである。capitalist から金をとり上ぐればだめである、何にもできない。同様にあなた方から腕をとり上げても駄目(だめ)である。我々は腕も金もとり上げられてもいいが、人間をとり上げられたらそれこそ大変だ。
 あなた方の方では技術と自然との間に何らの矛盾もないが、私どもの方には矛盾もある。すなわちごまかしがきくのです、悲しくないのに泣いたり、(たの)しくもないのに笑ったり、腹も立たないのにおこったり、こんな講壇の上などに立ってあなた方から偉く見られようとしたりするので、これはある程度まで成功します。これは一種の art である、art と人間の間には距離を生じて矛盾を生じやすい。あなた方にも人格にない art を(ろう)している事もたくさんある、すなわちねむいのに、(ねむ)くないようなふりをする義理もありましょうがね。かく art は恐ろしい。吾々は art は二の次で人間が第一なのです。孔子様でなければ人格がない、なんていうのじゃない、失格といったってえらいという事でもなければ、偉くないという事でもない、個人の思想なり観念なりを中心とするのである。
 一口にていえば、文芸家の仕事の本体すなわち essence は人間であって、他のものは附属品装飾品である。
 この見地より世の中を見わたせば面白いものです。私一人かも知れませんが、世の中は自分を中心としなければいけない。私は親が生んだので、親はまたその親が、生んだのです。何も木の股からではない。人間は自分を通じて先祖を後世に伝える方便として生きてるのか、または自分その者を後世に伝えるために生きてるのか、どっちでもいいけれどもとりようでは二様にとれる。親が死んだからその代理に生きてるともとれるし、そうでなくて己は自分が生きているんで、親はこのおれを生むための方便だ、自分が消えると気の毒だから、子に伝えてやる、という事に考えてもさしつかえない。この論法からいうと芸術家が昔の芸術を後世に伝えるために生きているというのも、不見識ではあるがやっぱり必要でしょう。ことに旧芝居やお能なんかはいい例です。絵画にもそれがある。私は狩野元信のために生きているので、決して私のためには生きてるのではないと看板をかけてる人もたくさんある。――身を殺して仁をなすのでしょうが、personality の論法で行くと、これはあてはまらないですね。こんな人はとりのけて、ほんとに自覚したらどうだろう、すなわち personality より出立しようとする。狩野のために生きるのをよして自分のために生きようとする。まったく同じ事は決して再び起らない。scientific ではどうか知らないけれども精神界ではまったく同じものが二つは来ないゆえに全然旧には(かえ)らない。なお他の一つは旧にかえるのではなく新らしい departure をする。これらによって essential な personality を発揮する事ができる。
 導体的の文芸家美術家も、必要かも知れないが、人間の本分として、自覚しなければならない。このところが大切なところで充分に説明しなければいけないんですが、今日は時間がないからこれで止めます。
 私のいうた事はあなた方と私どもの職業の(ちがい)から私どもの方をくわしくいうたのだけれどもあなた方の方もある程度までは応用がききます、あなた方の職業の方面において、幾分か参考になる事があるでしょう。もっとも文芸部の会ですから応用がきかなくっても、威張(いば)ってそういう権利があります。しかし個人としてなり職業としてなり、ご参考になれば非常に私はうれしい。――それだけです。

〔一九一四(大正三)年一月十七日、東京高等工業学校において〕

 

 

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