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草枕 七(2)

时间: 2021-02-22    进入日语论坛
核心提示: 余は湯槽(ゆぶね)のふちに仰向(あおむけ)の頭を支(ささ)えて、透(す)き徹(とお)る湯のなかの軽(かろ)き身体(からだ)を、出来る
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 余は湯槽(ゆぶね)のふちに仰向(あおむけ)の頭を(ささ)えて、()(とお)る湯のなかの(かろ)身体(からだ)を、出来るだけ抵抗力なきあたりへ(ただよ)わして見た。ふわり、ふわりと(たましい)がくらげのように浮いている。世の中もこんな気になれば(らく)なものだ。分別(ふんべつ)錠前(じょうまえ)()けて、執着(しゅうじゃく)栓張(しんばり)をはずす。どうともせよと、湯泉()のなかで、湯泉()と同化してしまう。流れるものほど生きるに苦は入らぬ。流れるもののなかに、魂まで流していれば、基督(キリスト)の御弟子となったよりありがたい。なるほどこの調子で考えると、土左衛門(どざえもん)風流(ふうりゅう)である。スウィンバーンの何とか云う詩に、女が水の底で往生して嬉しがっている感じを書いてあったと思う。余が平生から苦にしていた、ミレーのオフェリヤも、こう観察するとだいぶ美しくなる。何であんな不愉快な所を(えら)んだものかと今まで不審に思っていたが、あれはやはり()になるのだ。水に浮んだまま、あるいは水に沈んだまま、あるいは沈んだり浮んだりしたまま、ただそのままの姿で苦なしに流れる有様は美的に相違ない。それで両岸にいろいろな草花をあしらって、水の色と流れて行く人の顔の色と、衣服の色に、落ちついた調和をとったなら、きっと画になるに相違ない。しかし流れて行く人の表情が、まるで平和ではほとんど神話か比喩(ひゆ)になってしまう。痙攣的(けいれんてき)苦悶(くもん)はもとより、全幅の精神をうち()わすが、全然色気(いろけ)のない平気な顔では人情が写らない。どんな顔をかいたら成功するだろう。ミレーのオフェリヤは成功かも知れないが、彼の精神は余と同じところに存するか疑わしい。ミレーはミレー、余は余であるから、余は余の興味を(もっ)て、一つ風流な土左衛門(どざえもん)をかいて見たい。しかし思うような顔はそうたやすく心に浮んで来そうもない。
 湯のなかに浮いたまま、今度は土左衛門(どざえもん)(さん)を作って見る。

雨が降ったら()れるだろう。
(しも)()りたら(つめ)たかろ。
土のしたでは暗かろう。
浮かば波の上、
沈まば波の底、
春の水なら苦はなかろ。

と口のうちで小声に(じゅ)しつつ漫然(まんぜん)と浮いていると、どこかで()く三味線の()が聞える。美術家だのにと云われると恐縮するが、実のところ、余がこの楽器における智識はすこぶる怪しいもので二が上がろうが、三が下がろうが、耳には余り影響を受けた(ため)しがない。しかし、静かな春の夜に、雨さえ興を添える、山里の湯壺(ゆつぼ)の中で、(たましい)まで春の温泉(でゆ)に浮かしながら、遠くの三味を無責任に聞くのははなはだ嬉しい。遠いから何を(うた)って、何を弾いているか無論わからない。そこに何だか(おもむき)がある。音色(ねいろ)の落ちついているところから察すると、上方(かみがた)検校(けんぎょう)さんの地唄(じうた)にでも聴かれそうな太棹(ふとざお)かとも思う。

 

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