暮れんとする春の色の、嬋媛として、しばらくは冥の戸口をまぼろしに彩どる中に、眼も醒むるほどの帯地は金襴か。あざやかなる織物は往きつ、戻りつ蒼然たる夕べのなかにつつまれて、幽闃のあなた、遼遠のかしこへ一分ごとに消えて去る。燦めき渡る春の星の、暁近くに、紫深き空の底に陥いる趣である。
太玄のおのずから開けて、この華やかなる姿を、幽冥の府に吸い込まんとするとき、余はこう感じた。金屏を背に、銀燭を前に、春の宵の一刻を千金と、さざめき暮らしてこそしかるべきこの装の、厭う景色もなく、争う様子も見えず、色相世界から薄れて行くのは、ある点において超自然の情景である。刻々と逼る黒き影を、すかして見ると女は粛然として、焦きもせず、狼狽もせず、同じほどの歩調をもって、同じ所を徘徊しているらしい。身に落ちかかる災を知らぬとすれば無邪気の極である。知って、災と思わぬならば物凄い。黒い所が本来の住居で、しばらくの幻影を、元のままなる冥漠の裏に収めればこそ、かように間の態度で、有と無の間に逍遥しているのだろう。女のつけた振袖に、紛たる模様の尽きて、是非もなき磨墨に流れ込むあたりに、おのが身の素性をほのめかしている。
またこう感じた。うつくしき人が、うつくしき眠りについて、その眠りから、さめる暇もなく、幻覚のままで、この世の呼吸を引き取るときに、枕元に病を護るわれらの心はさぞつらいだろう。四苦八苦を百苦に重ねて死ぬならば、生甲斐のない本人はもとより、傍に見ている親しい人も殺すが慈悲と諦らめられるかも知れない。しかしすやすやと寝入る児に死ぬべき何の科があろう。眠りながら冥府に連れて行かれるのは、死ぬ覚悟をせぬうちに、だまし打ちに惜しき一命を果すと同様である。どうせ殺すものなら、とても逃れぬ定業と得心もさせ、断念もして、念仏を唱えたい。死ぬべき条件が具わらぬ先に、死ぬる事実のみが、ありありと、確かめらるるときに、南無阿弥陀仏と回向をする声が出るくらいなら、その声でおういおういと、半ばあの世へ足を踏み込んだものを、無理にも呼び返したくなる。仮りの眠りから、いつの間とも心づかぬうちに、永い眠りに移る本人には、呼び返される方が、切れかかった煩悩の綱をむやみに引かるるようで苦しいかも知れぬ。慈悲だから、呼んでくれるな、穏かに寝かしてくれと思うかも知れぬ。それでも、われわれは呼び返したくなる。余は今度女の姿が入口にあらわれたなら、呼びかけて、うつつの裡から救ってやろうかと思った。しかし夢のように、三尺の幅を、すうと抜ける影を見るや否や、何だか口が聴けなくなる。今度はと心を定めているうちに、すうと苦もなく通ってしまう。なぜ何とも云えぬかと考うる途端に、女はまた通る。こちらに窺う人があって、その人が自分のためにどれほどやきもき思うているか、微塵も気に掛からぬ有様で通る。面倒にも気の毒にも、初手から、余のごときものに、気をかねておらぬ有様で通る。今度は今度はと思うているうちに、こらえかねた、雲の層が、持ち切れぬ雨の糸を、しめやかに落し出して、女の影を、蕭々と封じ了る。
この長い振袖を着て、長い廊下を何度往き何度戻る気か、余には解からぬ。いつ頃からこの不思議な装をして、この不思議な歩行をつづけつつあるかも、余には解らぬ。その主意に至ってはもとより解らぬ。もとより解るべきはずならぬ事を、かくまでも端正に、かくまでも静粛に、かくまでも度を重ねて繰り返す人の姿の、入口にあらわれては消え、消えてはあらわるる時の余の感じは一種異様である。逝く春の恨を訴うる所作ならば何が故にかくは無頓着なる。無頓着なる所作ならば何が故にかくは綺羅を飾れる。