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草枕 七(3)

时间: 2021-02-22    进入日语论坛
核心提示: 小供の時分、門前に万屋(よろずや)と云う酒屋があって、そこに御倉(おくら)さんと云う娘がいた。この御倉さんが、静かな春の昼
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 小供の時分、門前に万屋(よろずや)と云う酒屋があって、そこに御倉(おくら)さんと云う娘がいた。この御倉さんが、静かな春の昼過ぎになると、必ず長唄の御浚(おさら)いをする。御浚が始まると、余は庭へ出る。茶畠の十坪余りを前に(ひか)えて、三本の松が、客間の東側に並んでいる。この松は(まわ)り一尺もある大きな樹で、面白い事に、三本寄って、始めて趣のある恰好(かっこう)を形つくっていた。小供心にこの松を見ると好い心持になる。松の下に黒くさびた鉄灯籠(かなどうろう)が名の知れぬ赤石の上に、いつ見ても、わからず屋の頑固爺(かたくなじじい)のようにかたく坐っている。余はこの灯籠を見詰めるのが大好きであった。灯籠の前後には、(こけ)深き地を()いて、名も知らぬ春の草が、浮世の風を知らぬ顔に、(ひと)り匂うて独り楽しんでいる。余はこの草のなかに、わずかに(ひざ)()るるの席を見出して、じっと、しゃがむのがこの時分の癖であった。この三本の松の下に、この灯籠を(にら)めて、この草の()()いで、そうして御倉さんの長唄を遠くから聞くのが、当時の日課であった。
 御倉さんはもう赤い手絡(てがら)の時代さえ通り越して、だいぶんと世帯(しょたい)じみた顔を、帳場へ(さら)してるだろう。(むこ)とは折合(おりあい)がいいか知らん。(つばくろ)は年々帰って来て、(どろ)(ふく)んだ(くちばし)を、いそがしげに働かしているか知らん。燕と酒の()とはどうしても想像から切り離せない。
 三本の松はいまだに()恰好(かっこう)で残っているかしらん。鉄灯籠はもう壊れたに相違ない。春の草は、(むか)し、しゃがんだ人を覚えているだろうか。その時ですら、口もきかずに過ぎたものを、今に見知ろうはずがない。御倉(おくら)さんの旅の衣は鈴懸のと云う、()ごとの声もよも聞き覚えがあるとは云うまい。
 三味(しゃみ)()が思わぬパノラマを余の眼前(がんぜん)に展開するにつけ、余は(ゆか)しい過去の()のあたりに立って、二十年の昔に住む、頑是(がんぜ)なき小僧と、成り済ましたとき、突然風呂場の戸がさらりと()いた。
 誰か来たなと、身を浮かしたまま、視線だけを入口に(そそ)ぐ。湯槽(ゆぶね)(ふち)の最も入口から、(へだ)たりたるに頭を乗せているから、(ふね)(くだ)る段々は、(あいだ)二丈を隔てて(なな)めに余が眼に入る。しかし見上げたる余の瞳にはまだ何物も映らぬ。しばらくは軒を(めぐ)雨垂(あまだれ)の音のみが聞える。三味線はいつの()にかやんでいた。
 やがて階段の上に何物かあらわれた。広い風呂場を(てら)すものは、ただ一つの小さき()洋灯(ランプ)のみであるから、この隔りでは澄切った空気を(ひか)えてさえ、(しか)物色(ぶっしょく)はむずかしい。まして立ち上がる湯気の、(こまや)かなる雨に(おさ)えられて、逃場(にげば)を失いたる今宵(こよい)の風呂に、立つを誰とはもとより定めにくい。一段を下り、二段を踏んで、まともに、照らす灯影(ほかげ)を浴びたる時でなくては、男とも女とも声は掛けられぬ。
 黒いものが一歩を下へ移した。踏む石は天鵞(びろうど)のごとく(やわら)かと見えて、足音を(しょう)にこれを(りっ)すれば、動かぬと評しても差支(さしつかえ)ない。が輪廓は少しく浮き上がる。余は画工だけあって人体の骨格については、存外(ぞんがい)視覚が鋭敏である。何とも知れぬものの一段動いた時、余は女と二人、この風呂場の中に()る事を(さと)った。
 注意をしたものか、せぬものかと、浮きながら考える間に、女の影は遺憾(いかん)なく、余が前に、早くもあらわれた。(みな)ぎり渡る湯煙りの、やわらかな光線を一分子(ぶんし)ごとに含んで、薄紅(うすくれない)の暖かに見える奥に、(ただよ)わす黒髪を雲とながして、あらん限りの背丈(せたけ)を、すらりと()した女の姿を見た時は、礼儀の、作法(さほう)の、風紀(ふうき)のと云う感じはことごとく、わが脳裏(のうり)を去って、ただひたすらに、うつくしい画題を見出し得たとのみ思った。
 古代希臘(ギリシャ)の彫刻はいざ知らず、今世仏国(きんせいふっこく)の画家が命と頼む裸体画を見るたびに、あまりに露骨(あからさま)な肉の美を、極端まで描がき尽そうとする痕迹(こんせき)が、ありありと見えるので、どことなく気韻(きいん)(とぼ)しい心持が、今までわれを苦しめてならなかった。しかしその折々はただどことなく下品だと評するまでで、なぜ下品であるかが、解らぬ(ゆえ)、吾知らず、答えを得るに煩悶(はんもん)して今日(こんにち)に至ったのだろう。肉を(おお)えば、うつくしきものが隠れる。かくさねば(いや)しくなる。今の世の裸体画と云うはただかくさぬと云う卑しさに、技巧を(とど)めておらぬ。(ころも)を奪いたる姿を、そのままに写すだけにては、物足らぬと見えて、()くまでも裸体(はだか)を、衣冠の世に押し出そうとする。服をつけたるが、人間の常態なるを忘れて、赤裸にすべての権能を附与せんと試みる。十分(じゅうぶん)で事足るべきを、十二分(じゅうにぶん)にも、十五分(じゅうごぶん)にも、どこまでも進んで、ひたすらに、裸体であるぞと云う感じを強く描出(びょうしゅつ)しようとする。技巧がこの極端に達したる時、人はその観者(かんじゃ)()うるを(ろう)とする。うつくしきものを、いやが上に、うつくしくせんと()せるとき、うつくしきものはかえってその()を減ずるが例である。人事についても満は損を招くとの(ことわざ)はこれがためである。

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