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草枕 九(3)

时间: 2021-02-22    进入日语论坛
核心提示:「ヴェニスは沈みつつ、沈みつつ、ただ空に引く一抹(いちまつ)の淡き線となる。線は切れる。切れて点となる。蛋白石(とんぼだま)
(单词翻译:双击或拖选)

「ヴェニスは沈みつつ、沈みつつ、ただ空に引く一抹(いちまつ)の淡き線となる。線は切れる。切れて点となる。蛋白石(とんぼだま)の空のなかに(まる)き柱が、ここ、かしこと立つ。ついには最も高く(そび)えたる鐘楼(しゅろう)が沈む。沈んだと女が云う。ヴェニスを去る女の心は空行く風のごとく自由である。されど隠れたるヴェニスは、再び帰らねばならぬ女の心に覊絏(きせつ)の苦しみを与う。男と女は暗き湾の(かた)に眼を注ぐ。星は次第に増す。柔らかに(ゆら)ぐ海は(あわ)(そそ)がず。男は女の手を()る。鳴りやまぬ(ゆづる)を握った心地(ここち)である。……」
「あんまり非人情でもないようですね」
「なにこれが非人情的に聞けるのですよ。しかし(いや)なら少々略しましょうか」
「なに私は大丈夫ですよ」
「わたしは、あなたよりなお大丈夫です。――それからと、ええと、少しく()ずかしくなって来たな。どうも訳し――いや読みにくい」
「読みにくければ、御略(おりゃく)しなさい」
「ええ、いい加減にやりましょう。――この一夜(ひとよ)と女が云う。一夜? と男がきく。一と限るはつれなし、幾夜(いくよ)を重ねてこそと云う」
「女が云うんですか、男が云うんですか」
「男が云うんですよ。何でも女がヴェニスへ帰りたくないのでしょう。それで男が慰める(ことば)なんです。――真夜中の甲板(かんぱん)に帆綱を枕にして(よこた)わりたる、男の記憶には、かの瞬時、熱き一滴の血に似たる瞬時、女の手を(しか)()りたる瞬時が大濤(おおなみ)のごとくに揺れる。男は黒き夜を見上げながら、()いられたる結婚の(ふち)より、是非に女を救い出さんと思い定めた。かく思い定めて男は眼を()ずる。――」
「女は?」
「女は路に迷いながら、いずこに迷えるかを知らぬ(さま)である。(さら)われて空行く人のごとく、ただ不可思議の千万無量――あとがちょっと読みにくいですよ。どうも句にならない。――ただ不可思議の千万無量――何か動詞はないでしょうか」
「動詞なんぞいるものですか、それで沢山です」
「え?」
 (ごう)と音がして山の()がことごとく鳴る。思わず顔を見合わす途端(とたん)に、机の上の一輪挿(いちりんざし)()けた、椿(つばき)がふらふらと揺れる。「地震!」と小声で叫んだ女は、(ひざ)(くず)して余の机に()りかかる。御互(おたがい)身躯(からだ)がすれすれに動く。キキーと(する)どい羽摶(はばたき)をして一羽の雉子(きじ)(やぶ)の中から飛び出す。
「雉子が」と余は窓の外を見て云う。
「どこに」と女は崩した、からだを擦寄(すりよ)せる。余の顔と女の顔が触れぬばかりに近づく。細い鼻の穴から出る女の呼吸(いき)が余の(ひげ)にさわった。
「非人情ですよ」と女はたちまち坐住居(いずまい)を正しながら(きっ)と云う。
「無論」と言下(ごんか)に余は答えた。
 岩の(くぼ)みに(たた)えた春の水が、驚ろいて、のたりのたりと(ぬる)(うご)いている。地盤の響きに、満泓(まんおう)の波が底から動くのだから、表面が不規則に曲線を描くのみで、(くだ)けた部分はどこにもない。円満に動くと云う語があるとすれば、こんな場合に用いられるのだろう。落ちついて影をしていた山桜が、水と共に、延びたり縮んだり、曲がったり、くねったりする。しかしどう変化してもやはり明らかに桜の姿を(たも)っているところが非常に面白い。
「こいつは愉快だ。奇麗(きれい)で、変化があって。こう云う風に動かなくっちゃ面白くない」
「人間もそう云う風にさえ動いていれば、いくら動いても大丈夫ですね」
「非人情でなくっちゃ、こうは動けませんよ」
「ホホホホ大変非人情が御好きだこと」
「あなた、だって(きらい)な方じゃありますまい。昨日(きのう)振袖(ふりそで)なんか……」と言いかけると、
「何か御褒美(ごほうび)をちょうだい」と女は急に(あま)えるように云った。
「なぜです」
「見たいとおっしゃったから、わざわざ、見せて上げたんじゃありませんか」
「わたしがですか」
山越(やまごえ)をなさった()の先生が、茶店の婆さんにわざわざ御頼みになったそうで御座います」

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