木蓮の花ばかりなる空を瞻る
と云う句を得た。どこやらで、鳩がやさしく鳴き合うている。
庫裏に入る。庫裏は明け放してある。盗人はおらぬ国と見える。狗はもとより吠えぬ。
「御免」
と訪問れる。森として返事がない。
「頼む」
と案内を乞う。鳩の声がくううくううと聞える。
「頼みまああす」と大きな声を出す。
「おおおおおおお」と遥かの向で答えたものがある。人の家を訪うて、こんな返事を聞かされた事は決してない。やがて足音が廊下へ響くと、紙燭の影が、衝立の向側にさした。小坊主がひょこりとあらわれる。了念であった。
「和尚さんはおいでかい」
「おられる。何しにござった」
「温泉にいる画工が来たと、取次でおくれ」
「画工さんか。それじゃ御上り」
「断わらないでもいいのかい」
「よろしかろ」
余は下駄を脱いで上がる。
「行儀がわるい画工さんじゃな」
「なぜ」
「下駄を、よう御揃えなさい。そらここを御覧」と紙燭を差しつける。黒い柱の真中に、土間から五尺ばかりの高さを見計って、半紙を四つ切りにした上へ、何か認めてある。
「そおら。読めたろ。脚下を見よ、と書いてあるが」
「なるほど」と余は自分の下駄を丁寧に揃える。
和尚の室は廊下を鍵の手に曲って、本堂の横手にある。障子を恭しくあけて、恭しく敷居越しにつくばった了念が、
「あのう、志保田から、画工さんが来られました」と云う。はなはだ恐縮の体である。余はちょっとおかしくなった。
「そうか、これへ」
余は了念と入れ代る。室がすこぶる狭い。中に囲炉裏を切って、鉄瓶が鳴る。和尚は向側に書見をしていた。
「さあこれへ」と眼鏡をはずして、書物を傍へおしやる。
「了念。りょううねええん」
「ははははい」
「座布団を上げんか」
「はははははい」と了念は遠くで、長い返事をする。
「よう、来られた。さぞ退屈だろ」
「あまり月がいいから、ぶらぶら来ました」
「いい月じゃな」と障子をあける。飛び石が二つ、松一本のほかには何もない、平庭の向うは、すぐ懸崖と見えて、眼の下に朧夜の海がたちまちに開ける。急に気が大きくなったような心持である。漁火がここ、かしこに、ちらついて、遥かの末は空に入って、星に化けるつもりだろう。
「これはいい景色。和尚さん、障子をしめているのはもったいないじゃありませんか」
「そうよ。しかし毎晩見ているからな」
「何晩見てもいいですよ、この景色は。私なら寝ずに見ています」
「ハハハハ。もっともあなたは画工だから、わしとは少し違うて」
「和尚さんだって、うつくしいと思ってるうちは画工でさあ」