「わしにも入らんがな。わしはまだ巡査の厄介になった事がない」
「そうでしょう」
「しかし、いくら警察が屁の勘定をしたてて、構わんがな。澄ましていたら。自分にわるい事がなけりゃ、なんぼ警察じゃて、どうもなるまいがな」
「屁くらいで、どうかされちゃたまりません」
「わしが小坊主のとき、先代がよう云われた。人間は日本橋の真中に臓腑をさらけ出して、恥ずかしくないようにしなければ修業を積んだとは云われんてな。あなたもそれまで修業をしたらよかろ。旅などはせんでも済むようになる」
「画工になり澄ませば、いつでもそうなれます」
「それじゃ画工になり澄したらよかろ」
「屁の勘定をされちゃ、なり切れませんよ」
「ハハハハ。それ御覧。あの、あなたの泊っている、志保田の御那美さんも、嫁に入って帰ってきてから、どうもいろいろな事が気になってならん、ならんと云うてしまいにとうとう、わしの所へ法を問いに来たじゃて。ところが近頃はだいぶ出来てきて、そら、御覧。あのような訳のわかった女になったじゃて」
「へええ、どうもただの女じゃないと思いました」
「いやなかなか機鋒の鋭どい女で――わしの所へ修業に来ていた泰安と云う若僧も、あの女のために、ふとした事から大事を窮明せんならん因縁に逢着して――今によい智識になるようじゃ」
静かな庭に、松の影が落ちる、遠くの海は、空の光りに応うるがごとく、応えざるがごとく、有耶無耶のうちに微かなる、耀きを放つ。漁火は明滅す。
「あの松の影を御覧」
「奇麗ですな」
「ただ奇麗かな」
「ええ」
「奇麗な上に、風が吹いても苦にしない」
茶碗に余った渋茶を飲み干して、糸底を上に、茶托へ伏せて、立ち上る。
「門まで送ってあげよう。りょううねええん。御客が御帰だぞよ」
送られて、庫裏を出ると、鳩がくううくううと鳴く。
「鳩ほど可愛いものはない、わしが、手をたたくと、みな飛んでくる。呼んで見よか」
月はいよいよ明るい。しんしんとして、木蓮は幾朶の雲華を空裏にげている。寥たる春夜の真中に、和尚ははたと掌を拍つ。声は風中に死して一羽の鳩も下りぬ。
「下りんかいな。下りそうなものじゃが」
了念は余の顔を見て、ちょっと笑った。和尚は鳩の眼が夜でも見えると思うているらしい。気楽なものだ。
山門の所で、余は二人に別れる。見返えると、大きな丸い影と、小さな丸い影が、石甃の上に落ちて、前後して庫裏の方に消えて行く。