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草枕 十二(1)

时间: 2021-03-09    进入日语论坛
核心提示: 基督(キリスト)は最高度に芸術家の態度を具足したるものなりとは、オスカー・ワイルドの説と記憶している。基督は知らず。観海
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 基督(キリスト)は最高度に芸術家の態度を具足したるものなりとは、オスカー・ワイルドの説と記憶している。基督は知らず。観海寺の和尚(おしょう)のごときは、まさしくこの資格を有していると思う。趣味があると云う意味ではない。時勢に通じていると云う訳でもない。彼は()と云う名のほとんど(くだ)すべからざる達磨(だるま)(ふく)を掛けて、ようできたなどと得意である。彼は画工(えかき)に博士があるものと心得ている。彼は鳩の眼を夜でも()くものと思っている。それにも(かか)わらず、芸術家の資格があると云う。彼の心は底のない(ふくろ)のように行き抜けである。何にも停滞(ていたい)しておらん。随処(ずいしょ)に動き去り、任意(にんい)()し去って、()塵滓(じんし)の腹部に沈澱(ちんでん)する景色(けしき)がない。もし彼の脳裏(のうり)に一点の趣味を(ちょう)し得たならば、彼は()く所に同化して、行屎走尿(こうしそうにょう)の際にも、完全たる芸術家として存在し得るだろう。余のごときは、探偵に()の数を勘定(かんじょう)される間は、とうてい画家にはなれない。画架(がか)に向う事は出来る。小手板(こていた)を握る事は出来る。しかし画工にはなれない。こうやって、名も知らぬ山里へ来て、暮れんとする春色(しゅんしょく)のなかに五尺の痩躯(そうく)(うず)めつくして、始めて、真の芸術家たるべき態度に吾身を置き得るのである。一たびこの境界(きょうがい)に入れば美の天下はわが有に帰する。尺素(せきそ)を染めず、(すんけん)を塗らざるも、われは第一流の大画工である。()において、ミケルアンゼロに及ばず、(たく)みなる事ラフハエルに譲る事ありとも、芸術家たるの人格において、古今の大家と歩武(ほぶ)(ひとし)ゅうして、(ごう)(ゆず)るところを見出し得ない。余はこの温泉場へ来てから、まだ一枚の()もかかない。絵の具箱は酔興(すいきょう)に、(かつ)いできたかの感さえある。人はあれでも画家かと(わら)うかもしれぬ。いくら嗤われても、今の余は真の画家である。立派な画家である。こう云う(きょう)を得たものが、名画をかくとは限らん。しかし名画をかき得る人は必ずこの境を知らねばならん。
 朝飯(あさめし)をすまして、一本の敷島(しきしま)をゆたかに吹かしたるときの余の観想は以上のごとくである。日は(かすみ)を離れて高く(のぼ)っている。障子(しょうじ)をあけて、(うし)ろの山を(なが)めたら、(あお)()が非常にすき通って、例になく(あざ)やかに見えた。

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