基督は最高度に芸術家の態度を具足したるものなりとは、オスカー・ワイルドの説と記憶している。基督は知らず。観海寺の和尚のごときは、まさしくこの資格を有していると思う。趣味があると云う意味ではない。時勢に通じていると云う訳でもない。彼は画と云う名のほとんど下すべからざる達磨の幅を掛けて、ようできたなどと得意である。彼は画工に博士があるものと心得ている。彼は鳩の眼を夜でも利くものと思っている。それにも関わらず、芸術家の資格があると云う。彼の心は底のない嚢のように行き抜けである。何にも停滞しておらん。随処に動き去り、任意に作し去って、些の塵滓の腹部に沈澱する景色がない。もし彼の脳裏に一点の趣味を貼し得たならば、彼は之く所に同化して、行屎走尿の際にも、完全たる芸術家として存在し得るだろう。余のごときは、探偵に屁の数を勘定される間は、とうてい画家にはなれない。画架に向う事は出来る。小手板を握る事は出来る。しかし画工にはなれない。こうやって、名も知らぬ山里へ来て、暮れんとする春色のなかに五尺の痩躯を埋めつくして、始めて、真の芸術家たるべき態度に吾身を置き得るのである。一たびこの境界に入れば美の天下はわが有に帰する。尺素を染めず、寸を塗らざるも、われは第一流の大画工である。技において、ミケルアンゼロに及ばず、巧みなる事ラフハエルに譲る事ありとも、芸術家たるの人格において、古今の大家と歩武を斉ゅうして、毫も遜るところを見出し得ない。余はこの温泉場へ来てから、まだ一枚の画もかかない。絵の具箱は酔興に、担いできたかの感さえある。人はあれでも画家かと嗤うかもしれぬ。いくら嗤われても、今の余は真の画家である。立派な画家である。こう云う境を得たものが、名画をかくとは限らん。しかし名画をかき得る人は必ずこの境を知らねばならん。
朝飯をすまして、一本の敷島をゆたかに吹かしたるときの余の観想は以上のごとくである。日は霞を離れて高く上っている。障子をあけて、後ろの山を眺めたら、蒼い樹が非常にすき通って、例になく鮮やかに見えた。