「都合か。世の中に都合ほど卑怯なものはない」
「するとアレキサンダーは大変な卑怯な男になる訳だ」
「アレキサンダーなんか、そんなに豪いと思ってるのか」
会話はちょっと切れた。甲野さんは寝返りを打つ。宗近君は箕坐のまま旅行案内をひろげる。雨は斜めに降る。
古い京をいやが上に寂びよと降る糠雨が、赤い腹を空に見せて衝いと行く乙鳥の背に応えるほど繁くなったとき、下京も上京もしめやかに濡れて、三十六峰の翠りの底に、音は友禅の紅を溶いて、菜の花に注ぐ流のみである。「御前川上、わしゃ川下で……」と芹を洗う門口に、眉をかくす手拭の重きを脱げば、「大文字」が見える。「松虫」も「鈴虫」も幾代の春を苔蒸して、鶯の鳴くべき藪に、墓ばかりは残っている。鬼の出る羅生門に、鬼が来ずなってから、門もいつの代にか取り毀たれた。綱がぎとった腕の行末は誰にも分からぬ。ただ昔しながらの春雨が降る。寺町では寺に降り、三条では橋に降り、祇園では桜に降り、金閣寺では松に降る。宿の二階では甲野さんと宗近君に降っている。
甲野さんは寝ながら日記を記けだした。横綴の茶の表布の少しは汗に汚ごれた角を、折るようにあけて、二三枚めくると、一頁の三が一ほど白い所が出て来た。甲野さんはここから書き始める。鉛筆を執って景気よく、
「一奩楼角雨、閑殺古今人」
と書いてしばらく考えている。転結を添えて絶句にする気と見える。
旅行案内を放り出して宗近君はずしんと畳を威嚇して椽側へ出る。椽側には御誂向に一脚の籐の椅子が、人待ち顔に、しめっぽく据えてある。連の疎なる花の間から隣り家の座敷が見える。障子は立て切ってある。中では琴の音がする。
「忽※[#「耳+吾」、56-1]弾琴響、垂楊惹恨新」
と甲野さんは別行に十字書いたが、気に入らぬと見えて、すぐさま棒を引いた。あとは普通の文章になる。