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虞美人草 三 (8)

时间: 2021-03-22    进入日语论坛
核心提示:「諫(いさめ)に従う事流るるがごとしとは僕の事を云ったものだよ」「酔払っていてもそれなら大丈夫だ」「なんて生意気を云う君は
(单词翻译:双击或拖选)
 (いさめ)に従う事流るるがごとしとは僕の事を云ったものだよ」
「酔払っていてもそれなら大丈夫だ」
「なんて生意気を云う君はどうだ。酔払っていると知りながら、胡坐をかく事も跪坐る事も出来ない人間だろう」
「まあ立ん坊だね」と甲野さんは(さび)し気に笑った。勢込(いきおいこ)んで喋舌(しゃべ)って来た宗近君は急に真面目(まじめ)になる。甲野さんのこの笑い顔を見ると宗近君はきっと真面目にならなければならぬ。幾多の顔の、幾多の表情のうちで、あるものは必ず人の肺腑(はいふ)に入る。面上の筋肉が我勝(われが)ちに(おど)るためではない。頭上の毛髪が一筋ごとに稲妻(いなずま)を起すためでもない。涙管(るいかん)の関が切れて滂沱(ぼうだ)の観を添うるがためでもない。いたずらに劇烈なるは、壮士が事もなきに剣を舞わして(ゆか)()るようなものである。浅いから動くのである。本郷座の芝居である。甲野さんの笑ったのは舞台で笑ったのではない。
 毛筋ほどな細い管を通して、(とら)えがたい(なさ)けの波が、心の底から(かろ)うじて流れ出して、ちらりと浮世の日に影を宿したのである。往来に(ころ)がっている表情とは違う。首を出して、浮世だなと気がつけばすぐ奥の院へ引き返す。引き返す前に、(つら)まえた人が勝ちである。捕まえ(そこ)なえば生涯(しょうがい)甲野さんを知る事は出来ぬ。
 甲野さんの笑は薄く、柔らかに、むしろ冷やかである。そのおとなしいうちに、その(すみや)かなるうちに、その消えて行くうちに、甲野さんの一生は(あきら)かに(えが)き出されている。この瞬間の意義を、そうかと合点するものは甲野君の知己(ちき)である。()った()ったの境に甲野さんを置いて、ははあ、こんな人かと合点(がてん)するようでは親子といえどもいまだしである。兄弟といえども他人である。斬った張ったの境に甲野さんを置いて、始めて甲野さんの性格を(えが)き出すのは野暮(やぼ)な小説である。二十世紀に斬った張ったがむやみに出て来るものではない。
 春の旅は長閑(のどか)である。京の宿は静かである。二人は無事である。ふざけている。その間に宗近君は甲野さんを知り、甲野さんは宗近君を知る。これが世の中である。
「立ん坊か」と云ったまま宗近君は駱駝(らくだ)膝掛(ひざかけ)馬簾(ばれん)をひねくり始めたが、やがて
「いつまでも立ん坊か」
と相手の顔は見ず、質問のように、独語(ひとりごと)のように、駱駝の膝掛に話しかけるように、立ん坊を繰り返した。
「立ん坊でも覚悟だけはちゃんとしている」と甲野さんはこの時始めて、腰を浮かして、相手の方に向き直る。
「叔父さんが生きてると好いがな」

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