同一の空間は二物によって同時に占有せらるる事能わずと昔しの哲学者が云った。愛嬌と不安が同時に小野さんの脳髄に宿る事はこの哲学者の発明に反する。愛嬌が退いて不安が這入る。下女は悪るいところへぶつかった。愛嬌が退いて不安が這入る。愛嬌が附焼刃で不安が本体だと思うのは偽哲学者である。家主が這入るについて、愛嬌が示談の上、不安に借家を譲り渡したまでである。それにしても小野さんは悪るいところを下女に見られた。
「通してもいいんですか」
「うん、そうさね」
「御留守だって云いましょうか」
「誰だい」
「浅井さん」
「浅井か」
「御留守?」
「そうさね」
「御留守になさいますか」
「どう、しようか知ら」
「どっち、でも」
「逢おうかな」
「じゃ、通しましょう」
「おい、ちょっと、待った。おい」
「何です」
「ああ、好い。好し好し」
友達には逢いたい時と、逢いたくない時とある。それが判然すれば何の苦もない。いやなら留守を使えば済む。小野さんは先方の感情を害せぬ限りは留守を使う勇気のある男である。ただ困るのは逢いたくもあり、逢いたくもなくて、前へ行ったり後ろへ戻ったりして下女にまで馬鹿にされる時である。
往来で人と往き合う事がある。双方でちょっと体を交わせば、それぎりで御互にもとの通り、あかの他人となる。しかし時によると両方で、同じ右か、同じ左りへ避ける。これではならぬと反対の側へ出ようと、足元を取り直すとき、向うもこれではならぬと気を換えて反対へ出る。反対と反対が鉢合せをして、おいしまったと心づいて、また出直すと、同時同刻に向うでも同様に出直してくる。両人は出直そうとしては出遅れ、出遅れては出直そうとして、柱時計の振子のようにこっち、あっちと迷い続けに迷うてくる。しまいには双方で双方を思い切りの悪るい野郎だと悪口が云いたくなる。人望のある小野さんは、もう少しで下女に思い切りの悪るい野郎だと云われるところであった。