「年来住み古るしたる住宅は隣家蔦屋にて譲り受け度旨申込有之、其他にも相談の口はかかり候えども、此方に取り極め申候。荷物其他嵩張り候ものは皆当地にて売払い、なるべく手軽に引き移るつもりに御座候。唯小夜所持の琴一面は本人の希望により、東京迄持ち運び候事に相成候。故きを棄てがたき婦女の心情御憐察可被下候。
「御承知の通小夜は五年前当地に呼び寄せ候迄、東京にて学校教育を受け候事とて切に転住の速かなる事を希望致し居候。同人行末の義に関しては大略御同意の事と存じ候えば別に不申述。追て其地にて御面会の上篤と御協議申上度と存候。
「博覧会にて御地は定めて雑沓の事と存候。出立の節はなるべく急行の夜汽車を撰みたくと存じ候えども、急行は非常の乗客の由につき、一層途中にて一二泊の上ゆるゆる上京致すやも計りがたく候。時日刻限はいずれ確定次第御報可致候。まずは右当用迄匆々不一」
小野さんは机の前へ坐った。力なく巻き納める恩人の手紙のなかから妙な臭が立ち上る。一種古ぼけた黴臭いにおいが上る。過去のにおいである。忘れんとして躊躇する毛筋の末を引いて、細い縁に、絶えるほどにつながるる今と昔を、面のあたりに結び合わす香である。