「もう行ってしまった。惜しい事をした」
「何が行ってしまったんだ」
「あの女がさ」
「あの女とは」
「隣りのさ」
「隣りの?」
「あの琴の主さ。君が大いに見たがった娘さ。せっかく見せてやろうと思ったのに、下らない茶碗なんかいじくっているもんだから」
「そりゃ惜しい事をした。どれだい」
「どれだか、もう見えるものかね」
「娘も惜しいがこの茶碗は無残な事をした。罪は君にある」
「有ってたくさんだ。そんな茶碗は洗ったくらいじゃ追つかない。壊してしまわなけりゃ直らない厄介物だ。全体茶人の持ってる道具ほど気に食わないものはない。みんな、ひねくれている。天下の茶器をあつめてことごとく敲き壊してやりたい気がする。何ならついでだからもう一つ二つ茶碗を壊して行こうじゃないか」
「ふうん、一個何銭ぐらいかな」
二人は茶碗の代を払って、停車場へ来る。
浮かれ人を花に送る京の汽車は嵯峨より二条に引き返す。引き返さぬは山を貫いて丹波へ抜ける。二人は丹波行の切符を買って、亀岡に降りた。保津川の急湍はこの駅より下る掟である。下るべき水は眼の前にまだ緩く流れて碧油の趣をなす。岸は開いて、里の子の摘む土筆も生える。舟子は舟を渚に寄せて客を待つ。
「妙な舟だな」と宗近君が云う。底は一枚板の平らかに、舷は尺と水を離れぬ。赤い毛布に煙草盆を転がして、二人はよきほどの間隔に座を占める。
「左へ寄っていやはったら、大丈夫どす、波はかかりまへん」と船頭が云う。船頭の数は四人である。真っ先なるは、二間の竹竿、続づく二人は右側に櫂、左に立つは同じく竿である。
ぎいぎいと櫂が鳴る。粗削りに平げたる樫の頸筋を、太い藤蔓に捲いて、余る一尺に丸味を持たせたのは、両の手にむんずと握る便りである。握る手の節の隆きは、真黒きは、松の小枝に青筋を立てて、うんと掻く力の脈を通わせたように見える。藤蔓に頸根を抑えられた櫂が、掻くごとに撓りでもする事か、強き項を真直に立てたまま、藤蔓と擦れ、舷と擦れる。櫂は一掻ごとにぎいぎいと鳴る。