「それから、まだ書いてあるんですよ」
「無精に似合わない事ね。何と」
「隣家の琴は御前より旨いって」
「ホホホ一さんに琴の批評は出来そうもありませんね」
「私にあてつけたんでしょう。琴がまずいから」
「ハハハハ宗近君もだいぶ人の悪い事をしますね」
「しかも、御前より別嬪だと書いてあるんです。にくらしいわね」
「一さんは何でも露骨なんですよ。私なんぞも一さんに逢っちゃ叶わない」
「でも、あなたの事は褒めてありますよ」
「おや、何と」
「御前より別嬪だ、しかし藤尾さんより悪いって」
「まあ、いやだ事」
藤尾は得意と軽侮の念を交えたる眼を輝かして、すらりと首を後ろに引く。鬣に比すべきものの波を起すばかりに見えたるなかに、玉虫貝の菫のみが星のごとく可憐の光を放つ。
小野さんの眼と藤尾の眼はこの時再び合った。糸子には意味が通ぜぬ。
「小野さん三条に蔦屋と云う宿屋がござんすか」
底知れぬ黒き眼のなかに我を忘れて、縋る未来に全く吸い込まれたる人は、刹那の戸板返しにずどんと過去へ落ちた。
追い懸けて来る過去を逃がるるは雲紫に立ち騰る袖香炉の煙る影に、縹緲の楽しみをこれぞと見極むるひまもなく、貪ぼると云う名さえつけがたき、眼と眼のひたと行き逢いたる一拶に、結ばぬ夢は醒めて、逆しまに、われは過去に向って投げ返される。草間蛇あり、容易に青を踏む事を許さずとある。
「蔦屋がどうかしたの」と藤尾は糸子に向う。
「なにその蔦屋にね、欽吾さんと兄さんが宿ってるんですって。だから、どんな所かと思って、小野さんに伺って見たんです」
「小野さん知っていらしって」