明かなる夢は輪を描いて胸のうちに回り出す。死したる夢ではない。五年の底から浮き刻りの深き記憶を離れて、咫尺に飛び上がって来る。女はただ眸を凝らして眼前に逼る夢の、明らかに過ぐるほどの光景を右から、左から、前後上下から見る。夢を見るに心を奪われたる人は、老いたる親の髯を忘れる。小夜子は口をきかなくなった。
「小野は新橋まで迎にくるだろうね」
「いらっしゃるでしょうとも」
夢は再び躍る。躍るなと抑えたるまま、夜を込めて揺られながらに、暗きうちを駛ける。老人は髯から手を放す。やがて眼を眠る。人も犬も草も木も判然と映らぬ古き世界には、いつとなく黒い幕が下りる。小さき胸に躍りつつ、転りつつ、抑えられつつ走る世界は、闇を照らして火のごとく明かである。小夜子はこの明かなる世界を抱いて眠についた。
長い車は包む夜を押し分けて、やらじと逆う風を打つ。追い懸くる冥府の神を、力ある尾に敲いて、ようやくに抜け出でたる暁の国の青く煙る向うが一面に競り上がって来る。茫々たる原野の自から尽きず、しだいに天に逼って上へ上へと限りなきを怪しみながら、消え残る夢を排して、眼を半天に走らす時、日輪の世は明けた。
神の代を空に鳴く金鶏の、翼五百里なるを一時に搏して、漲ぎる雲を下界に披く大虚の真中に、朗に浮き出す万古の雪は、末広になだれて、八州の野を圧する勢を、左右に展開しつつ、蒼茫の裡に、腰から下を埋めている。白きは空を見よがしに貫ぬく。白きものの一段を尽くせば、紫の襞と藍の襞とを斜めに畳んで、白き地を不規則なる幾条に裂いて行く。見上ぐる人は這う雲の影を沿うて、蒼暗き裾野から、藍、紫の深きを稲妻に縫いつつ、最上の純白に至って、豁然として眼が醒める。白きものは明るき世界にすべての乗客を誘う。