「おい富士が見える」と宗近君が座を滑り下りながら、窓をはたりと卸す。広い裾野から朝風がすうと吹き込んでくる。
「うん。さっきから見えている」と甲野さんは駱駝の毛布を頭から被ったまま、存外冷淡である。
「そうか、寝なかったのか」
「少しは寝た」
「何だ、そんなものを頭から被って……」
「寒い」と甲野さんは膝掛の中で答えた。
「僕は腹が減った。まだ飯は食わさないだろうか」
「飯を食う前に顔を洗わなくっちゃ……」
「ごもっともだ。ごもっともな事ばかり云う男だ。ちっと富士でも見るがいい」
「叡山よりいいよ」
「叡山? 何だ叡山なんか、たかが京都の山だ」
「大変軽蔑するね」
「ふふん。――どうだい、あの雄大な事は。人間もああ来なくっちゃあ駄目だ」
「君にはああ落ちついちゃいられないよ」
「保津川が関の山か。保津川でも君より上等だ。君なんぞは京都の電車ぐらいなところだ」
「京都の電車はあれでも動くからいい」
「君は全く動かないか。ハハハハ。さあ駱駝を払い退けて動いた」と宗近君は頭陀袋を棚から取り卸す。室のなかはざわついてくる。明かるい世界へ馳け抜けた汽車は沼津で息を入れる。――顔を洗う。
窓から肉の落ちた顔が半分出る。疎髯を一本ごとにあるいは黒くあるいは白く朝風に吹かして
「おい弁当を二つくれ」と云う。孤堂先生は右の手に若干の銀貨を握って、へぎ折を取る左と引き換に出す。御茶は部屋のなかで娘が注いでいる。
「どうだね」と折の蓋を取ると白い飯粒が裏へ着いてくる。なかには長芋の白茶に寝転んでいる傍らに、一片の玉子焼が黄色く圧し潰されようとして、苦し紛れに首だけ飯の境に突き込んでいる。
「まだ、食べたくないの」と小夜子は箸を執らずに折ごと下へ置く。
「やあ」と先生は茶碗を娘から受取って、膝の上の折に突き立てた箸を眺めながら、ぐっと飲む。