一本の浅葱桜が夕暮を庭に曇る。拭き込んだ椽は、立て切った障子の外に静かである。うちは小形の長火鉢に手取形の鉄瓶を沸らして前には絞り羽二重の座布団を敷く。布団の上には甲野の母が品よく座っている。きりりと釣り上げた眼尻の尽くるあたりに、疳の筋が裏を通って額へ突き抜けているらしい上部を、浅黒く膚理の細かい皮が包んで、外見だけは至極穏やかである。――針を海綿に蔵して、ぐっと握らしめたる後、柔らかき手に膏薬を貼って創口を快よく慰めよ。出来得べくんば唇を血の出る局所に接けて他意なきを示せ。――二十世紀に生れた人はこれだけの事を知らねばならぬ。骨を露わすものは亡ぶと甲野さんがかつて日記に書いた事がある。
静かな椽に足音がする。今卸したかと思われるほどの白足袋を張り切るばかりに細長い足に見せて、変り色の厚いの椽に引き擦るを軽く蹴返しながら、障子をすうと開ける。
居住をそのままの母は、濃い眉を半分ほど入口に傾けて、
「おや御這入」と云う。
藤尾は無言で後を締める。母の向に火鉢を隔ててすらりと坐った時、鉄瓶はしきりに鳴る。
母は藤尾の顔を見る。藤尾は火鉢の横に二つ折に畳んである新聞を俯目に眺める。――鉄瓶は依然として鳴る。
口多き時に真少なし。鉄瓶の鳴るに任せて、いたずらに差し向う親と子に、椽は静かである。浅葱桜は夕暮を誘いつつある。春は逝きつつある。
藤尾はやがて顔を上げた。
「帰って来たのね」
親、子の眼は、はたと行き合った。真は一瞥に籠る。熱に堪えざる時は骨を露わす。