同時に豊かな灯が宗近家の座敷に点る。静かなる夜を陽に返す洋灯の笠に白き光りをゆかしく罩めて、唐草を一面に高く敲き出した白銅の油壺が晴がましくも宵に曇らぬ色を誇る。灯火の照らす限りは顔ごとに賑やかである。
「アハハハハ」と云う声がまず起る。この灯火の周囲に起るすべての談話はアハハハハをもって始まるを恰好と思う。
「それじゃ相輪も見ないだろう」と大きな声を出す。声の主は老人である。色の好い頬の肉が双方から垂れ余って、抑えられた顎はやむを得ず二重に折れている。頭はだいぶ禿げかかった。これを時々撫でる。宗近の父は頭を撫で禿がしてしまった。
「相輪た何ですか」と宗近君は阿爺の前で変則の胡坐をかいている。
「アハハハハそれじゃ叡山へ何しに登ったか分からない」
「そんなものは通り路に見当らなかったようだね、甲野さん」
甲野さんは茶碗を前に、くすんだ万筋の前を合して、黒い羽織の襟を正しく坐っている。甲野さんが問い懸けられた時、な糸子の顔は揺いた。
「相輪はなかったようだね」と甲野さんは手を膝の上に置いたままである。
「通り路にないって……まあどこから登ったか知らないが――吉田かい」
「甲野さん、あれは何と云う所かね。僕らの登ったのは」
「何と云う所か知ら」
「阿爺何でも一本橋を渡ったんですよ」
「一本橋を?」
「ええ、――一本橋を渡ったな、君、――もう少し行くと若狭の国へ出る所だそうです」
「そう早く若狭へ出るものか」と甲野さんはたちまち前言を取り消した。
「だって君が、そう云ったじゃないか」
「それは冗談さ」
「アハハハハ若狭へ出ちゃ大変だ」と老人は大いに愉快そうである。糸子も丸顔に二重瞼の波を寄せた。