「一体御前方はただ歩行くばかりで飛脚同然だからいけない。――叡山には東塔、西塔、横川とあって、その三ヵ所を毎日往来してそれを修業にしている人もあるくらい広い所だ。ただ登って下りるだけならどこの山へ登ったって同じ事じゃないか」
「なに、ただの山のつもりで登ったんです」
「アハハハそれじゃ足の裏へ豆を出しに登ったようなものだ」
「豆はたしかです。豆はそっちの受持です」と笑ながら甲野さんの方を見る。哲学者もむずかしい顔ばかりはしておられぬ。灯火は明かに揺れる。糸子は袖を口へ当てて、崩しかかった笑顔の収まり際に頭を上げながら、眸を豆の受持ち手の方へ動かした。眼を動かさんとするものは、まず顔を動かす。火事場に泥棒を働らくの格である。家庭的の女にもこのくらいな作略はある。素知らぬ顔の甲野さんは、すぐ問題を呈出した。
「御叔父さん、東塔とか西塔とか云うのは何の名ですか」
「やはり延暦寺の区域だね。広い山の中に、あすこに一と塊まり、ここに一と塊まりと坊が集まっているから、まあこれを三つに分けて東塔とか西塔とか云うのだと思えば間違はない」
「まあ、君、大学に、法、医、文とあるようなものだよ」と宗近君は横合から、知ったような口を出す。
「まあ、そうだ」と老人は即座に賛成する。
「東は修羅、西は都に近ければ横川の奥ぞ住みよかりけると云う歌がある通り、横川が一番淋しい、学問でもするに好い所となっている。――今話した相輪から五十丁も這入らなければ行かれない」
「どうれで知らずに通った訳だな、君」と宗近君がまた甲野さんに話しかける。甲野さんは何とも云わずに老人の説明を謹聴している。老人は得意に弁ずる。
「そら謡曲の船弁慶にもあるだろう。――かように候ものは、西塔の傍に住居する武蔵坊弁慶にて候――弁慶は西塔におったのだ」
「弁慶は法科にいたんだね。君なんかは横川の文科組なんだ。――阿爺さん叡山の総長は誰ですか」
「総長とは」
「叡山の――つまり叡山を建てた男です」