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虞美人草 八 (8)

时间: 2021-04-10    进入日语论坛
核心提示:「開基(かいき)かい。開基は伝教大師(でんぎょうだいし)さ」「あんな所へ寺を建てたって、人泣かせだ、不便で仕方がありゃしない
(单词翻译:双击或拖选)
開基(かいき)かい。開基は伝教大師(でんぎょうだいし)さ」
「あんな所へ寺を建てたって、人泣かせだ、不便で仕方がありゃしない。全体(むか)しの男は酔興だよ。ねえ甲野さん」
 甲野さんは何だか要領を得ぬ返事を一口した。
「伝教大師は御前(おまい)、叡山の(ふもと)で生れた人だ」
「なるほどそう云えば分った。甲野さん分ったろう」
「何が」
「伝教大師御誕生地と云う棒杭(ぼうぐい)が坂本に建っていましたよ」
「あすこで生れたのさ」
「うん、そうか、甲野さん君も気が着いたろう」
「僕は気が着かなかった」
「豆に気を取られていたからさ」
「アハハハハ」と老人がまた笑う。
 観ずるものは見ず。昔しの人は(そう)こそ無上(むじょう)なれと説いた。()く水は日夜を捨てざるを、いたずらに真と書き、真と書いて、去る波の今書いた真を今()せて杳然(ようぜん)と去るを思わぬが世の常である。堂に法華(ほっけ)と云い、石に仏足(ぶっそく)と云い、相輪(そうりん)と云い、院に浄土と云うも、ただ名と年と歴史を()して吾事(わがこと)(おわ)ると思うは(しかばね)(いだ)いて活ける人を髣髴(ほうふつ)するようなものである。見るは名あるがためではない。観ずるは見るがためではない。太上(たいじょう)は形を離れて普遍の念に入る。――甲野さんが叡山(えいざん)に登って叡山を知らぬはこの故である。
 過去は死んでいる。大法鼓(だいほうこ)を鳴らし、大法螺(だいほうら)を吹き、大法幢(だいほうとう)()てて王城の鬼門を(まも)りし(むか)しは知らず、中堂に仏眠りて天蓋(てんがい)蜘蛛(くも)の糸引く古伽藍(ふるがらん)を、(いま)さらのように桓武(かんむ)天皇の御宇(ぎょう)から堀り起して、無用の詮議(せんぎ)に、千古の泥を洗い落すは、一日に四十八時間の夜昼ある閑人(ひまじん)所作(しょさ)である。現在は(こく)をきざんで(われ)を待つ。有為(うい)の天下は眼前に落ち(きた)る。双の(かいな)は風を()って乾坤(けんこん)に鳴る。――これだから宗近君は叡山に登りながら何にも知らぬ。

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