「修業するのさ。御前達もそうのらくらしないでちとそんな真似でもするがいい」
「そりゃ駄目ですよ」
「なぜ」
「なぜって。僕は出来ない事もないが、そうした日にゃ、あなたの命令に背く訳になりますからね」
「命令に?」
「だって人の顔を見るたんびに嫁を貰え嫁を貰えとおっしゃるじゃありませんか。これから十二年も山へ籠ったら、嫁を貰う時分にゃ腰が曲がっちまいます」
一座はどっと噴き出した。老人は首を少し上げて頭の禿を逆に撫でる。垂れ懸った頬の肉が顫え落ちそうだ。糸子は俯向いて声を殺したため二重瞼が薄赤くなる。甲野さんの堅い口も解けた。
「いや修業も修業だが嫁も貰わなくちゃあ困る。何しろ二人だから億劫だ。――欽吾さんも、もう貰わなければならんね」
「ええ、そう急には……」
いかにも気の無い返事をする。嫁を貰うくらいなら十二年叡山へでも籠る方が増しであると心のうちに思う。すべてを見逃さぬ糸子の目には欽吾の心がひらりと映った。小さい胸が急に重くなる。
「しかし阿母さんが心配するだろう」
甲野さんは何とも答えなかった。この老人も自分の母を尋常の母と心得ている。世の中に自分の母の心のうちを見抜いたものは一人もない。自分の母を見抜かなければ自分に同情しようはずがない。甲野さんは眇然として天地の間に懸っている。世界滅却の日をただ一人生き残った心持である。
「君がぐずぐずしていると藤尾さんも困るだろう。女は年頃をはずすと、男と違って、片づけるにも骨が折れるからね」
敬うべく愛すべき宗近の父は依然として母と藤尾の味方である。甲野さんは返事のしようがない。
「一にも貰って置かんと、わしも年を取っているから、いつどんな事があるかも知れないからね」
老人は自分の心で、わが母の心を推している。親と云う名が同じでも親と云う心には相違がある。しかし説明は出来ない。
「僕は外交官の試験に落第したから当分駄目ですよ」と宗近が横から口を出した。
「去年は落第さ。今年の結果はまだ分らんだろう」
「ええ、まだ分らんです。ですがね、また落第しそうですよ」
「なぜ」
「やっぱりのらくら以上だからでしょう」
「アハハハハ」
今夕の会話はアハハハハに始まってアハハハハに終った。