「アハハハ桜でも馬鹿には出来ない。この間も一が京都から帰って来て嵐山へ行ったと云うから、どんな花だと聞いて見たら、ただ一重だと云うだけでね、何にも知らない。今時のものは呑気なものでアハハハハ。――どうです粗菓だが一つ御撮みなさい。岐阜の柿羊羹」
「いえどうぞ。もう御構い下さいますな……」
「あんまり、旨いものじゃない。ただ珍らしいだけだ」と宗近老人は箸を上げて皿の中から剥ぎ取った羊羹の一片を手に受けて、独りでむしゃむしゃ食う。
「嵐山と云えば」と甲野の母は切り出した。
「せんだって中は欽吾がまた、いろいろ御厄介になりまして、御蔭様で方々見物させていただいたと申して大変喜んでおります。まことにあの通の我儘者でございますから一さんもさぞ御迷惑でございましたろう」
「いえ、一の方でいろいろ御世話になったそうで……」
「どう致しまして、人様の御世話などの出来るような男ではございませんので。あの年になりまして朋友と申すものがただの一人もございませんそうで……」
「あんまり学問をすると、そう誰でも彼でもむやみに附合が出来にくくなる。アハハハハ」
「私には女でいっこう分りませんが、何だか欝いでばかりいるようで――こちらの一さんにでも連れ出していただかないと、誰も相手にしてくれないようで……」
「アハハハハ一はまた正反対。誰でも相手にする。家にさえいるとあなた、妹にばかりからかって――いや、あれでも困る」
「いえ、誠に陽気で淡泊してて、結構でございますねえ。どうか一さんの半分でいいから、欽吾がもう少し面白くしてくれれば好いと藤尾にも不断申しているんでございますが――それもこれもみんな彼人の病気のせいだから、今さら愚癡をこぼしたって仕方がないとは思いますが、なまじい自分の腹を痛めた子でないだけに、世間へ対しても心配になりまして……」
「ごもっともで」と宗近老人は真面目に答えたが、ついでに灰吹をぽんと敲いて、銀の延打の煙管を畳の上にころりと落す。雁首から、余る煙が流れて出る。
「どうです、京都から帰ってから少しは好いようじゃありませんか」
「御蔭様で……」