「せんだって家へ見えた時などは皆と馬鹿話をして、だいぶ愉快そうでしたが」
「へええ」これは仔細らしく感心する。「まことに困り切ります」これは困り切ったように長々と引き延ばして云う。
「そりゃ、どうも」
「彼人の病気では、今までどのくらい心配したか分りません」
「いっそ結婚でもさせたら気が変って好いかも知れませんよ」
謎の女は自分の思う事を他に云わせる。手を下しては落度になる。向うで滑って転ぶのをおとなしく待っている。ただ滑るような泥海を知らぬ間に用意するばかりである。
「その結婚の事を朝暮申すのでございますが――どう在っても、うんと云って承知してくれません。私も御覧の通り取る年でございますし、それに甲野もあんな風に突然外国で亡くなりますような仕儀で、まことに心配でなりませんから、どうか一日も早く彼人のために身の落つきをつけてやりたいと思いまして……本当に、今まで嫁の事を持ち出した事は何度だか分りません。が持ち出すたんびに頭から撥ねつけられるのみで……」
「実はこの間見えた時も、ちょっとその話をしたんですがね。君がいつまでも強情を張ると心配するのは阿母だけで、可愛想だから、今のうちに早く身を堅めて安心させたら善かろうってね」
「御親切にどうもありがとう存じます」
「いえ、心配は御互で、こっちもちょうどどうかしなければならないのを二人背負い込んでるものだから、アハハハハどうも何ですね。何歳になっても心配は絶えませんね」
「此方様などは結構でいらっしゃいますが、私は――もし彼人がいつまでも病気だ病気だと申して嫁を貰ってくれませんうちに、もしもの事があったら、草葉の陰で配偶に合わす顔がございません。まあどうして、あんなに聞き訳がないんでございましょう。何か云い出すと、阿母私はこんな身体で、とても家の面倒は見て行かれないから、藤尾に聟を貰って、阿母さんの世話をさせて下さい。私は財産なんか一銭も入らない。と、まあこうでござんすもの。私が本当の親なら、それじゃ御前の勝手におしと申す事も出来ますが、御存じの通りなさぬ中の間柄でございますから、そんな不義理な事は人様に対しても出来かねますし、じつに途方に暮れます」
謎の女は和尚をじっと見た。和尚は大きな腹を出したまま考えている。灰吹がぽんと鳴る。紫檀の蓋を丁寧に被せる。煙管は転がった。
「なるほど」
和尚の声は例に似ず沈んでいる。