「アハハハそう心配しちゃ際限がありませんよ。藤尾さんさえ嫁に行ってしまえば欽吾さんにも責任が出る訳だから、自然と考もちがってくるにきまっている。そうなさい」
「そう云うものでございましょうかね」
「それに御承知の通、阿父がいつぞやおっしゃった事もあるし。そうなれば亡くなった人も満足だろう」
「いろいろ御親切にありがとう存じます。なに配偶さえ生きておりますれば、一人で――こん――こんな心配は致さなくっても宜しい――のでございますが」
謎の女の云う事はしだいに湿気を帯びて来る。世に疲れたる筆はこの湿気を嫌う。辛うじて謎の女の謎をここまで叙し来った時、筆は、一歩も前へ進む事が厭だと云う。日を作り夜を作り、海と陸とすべてを作りたる神は、七日目に至って休めと言った。謎の女を書きこなしたる筆は、日のあたる別世界に入ってこの湿気を払わねばならぬ。
日のあたる別世界には二人の兄妹が活動する。六畳の中二階の、南を受けて明るきを足れりとせず、小気味よく開け放ちたる障子の外には、二尺の松が信楽の鉢に、蟠まる根を盛りあげて、くの字の影を椽に伏せる。一間の唐紙は白地に秦漢瓦鐺の譜を散らしに張って、引手には波に千鳥が飛んでいる。つづく三尺の仮の床は、軸を嫌って、籠花活に軽い一輪をざっくばらんに投げ込んだ。
糸子は床の間に縫物の五色を、彩と乱して、糸屑のこぼるるほどの抽出を二つまであらわに抜いた針箱を窓近くに添える。縫うて行く糸の行方は、一針ごとに春を刻む幽かな音に、聴かれるほどの静かさを、兄は大きな声で消してしまう。
腹這は弥生の姿、寝ながらにして天下の春を領す。物指の先でしきりに敷居を敲いている。
「糸公。こりゃ御前の座敷の方が明かるくって上等だね」
「替えたげましょうか」
「そうさ。替えて貰ったところで余り儲かりそうでもないが――しかし御前には上等過ぎるよ」
「上等過ぎたって誰も使わないんだから好いじゃありませんか」
「好いよ。好い事は好いが少し上等過ぎるよ。それにこの装飾物がどうも――妙齢の女子には似合わしからんものがあるじゃないか」
「何が?」