岡は夜を掠めて本郷から起る。高き台を朧に浮かして幅十町を東へなだれる下り口は、根津に、弥生に、切り通しに、驚ろかんとするものを枡で料って下谷へ通す。踏み合う黒い影はことごとく池の端にあつまる。――文明の人ほど驚ろきたがるものはない。
松高くして花を隠さず、枝の隙間に夜を照らす宵重なりて、雨も降り風も吹く。始めは一片と落ち、次には二片と散る。次には数うるひまにただはらはらと散る。この間中は見るからに、万紅を大地に吹いて、吹かれたるものの地に届かざるうちに、梢から後を追うて落ちて来た。忙がしい吹雪はいつか尽きて、今は残る樹頭に嵐もようやく収った。星ならずして夜を護る花の影は見えぬ。同時にイルミネーションは点いた。
「あら」と糸子が云う。
「夜の世界は昼の世界より美しい事」と藤尾が云う。
薄の穂を丸く曲げて、左右から重なる金の閃く中に織り出した半月の数は分からず。幅広に腰を蔽う藤尾の帯を一尺隔てて宗近君と甲野さんが立っている。
「これは奇観だ。ざっと竜宮だね」と宗近君が云う。
「糸子さん、驚いたようですね」と甲野さんは帽子を眉深く被って立つ。
糸子は振り返る。夜の笑は水の中で詩を吟ずるようなものである。思う所へは届かぬかも知れぬ。振り返る人の衣の色は黄に似て夜を欺くを、黒いものが幾筋も竪に刻んでいる。
「驚いたかい」と今度は兄が聞き直す。
「貴所方は」と糸子を差し置いて藤尾が振り返る。黒い髪の陰から颯と白い顔が映す。頬の端は遠い火光を受けてほの赤い。
「僕は三遍目だから驚ろかない」と宗近君は顔一面を明かるい方へ向けて云う。
「驚くうちは楽があるもんだ。女は楽が多くて仕合せだね」と甲野さんは長い体躯を真直に立てたまま藤尾を見下した。
黒い眼が夜を射て動く。
「あれが台湾館なの」と何気なき糸子は水を横切って指を点す。
「あの一番右の前へ出ているのがそうだ。あれが一番善く出来ている。ねえ甲野さん」