「あの横に見えるのは何」と糸子が聞く。
「あれが外国館。ちょうど正面に見える。ここから見るのが一番奇麗だ。あの左にある高い丸い屋根が三菱館。――あの恰好が好い。何と形容するかな」と宗近君はちょっと躊躇した。
「あの真中だけが赤いのね」と妹が云う。
「冠に紅玉を嵌めたようだ事」と藤尾が云う。
「なるほど、天賞堂の広告見たようだ」と宗近君は知らぬ顔で俗にしてしまう。甲野さんは軽く笑って仰向いた。
空は低い。薄黒く大地に逼る夜の中途に、煮え切らぬ星が路頭に迷って放下がっている。柱と連なり、甍と積む万点のは逆しまに天を浸して、寝とぼけた星の眼を射る。星の眼は熱い。
「空が焦げるようだ。――羅馬法王の冠かも知れない」と甲野さんの視線は谷中から上野の森へかけて大いなる圜を画いた。
「羅馬法王の冠か。藤尾さん、羅馬法王の冠はどうだい。天賞堂の広告の方が好さそうだがね」
「いずれでも……」と藤尾は澄ましている。
「いずれでも差支なしか。とにかく女王の冠じゃない。ねえ甲野さん」
「何とも云えない。クレオパトラはあんな冠をかぶっている」
「どうして御存じなの」と藤尾は鋭どく聞いた。
「御前の持っている本に絵がかいてあるじゃないか」
「空より水の方が奇麗よ」と糸子が突然注意した。対話はクレオパトラを離れる。
昼でも死んでいる水は、風を含まぬ夜の影に圧し付けられて、見渡す限り平かである。動かぬはいつの事からか。静かなる水は知るまい。百年の昔に掘った池ならば、百年以来動かぬ、五十年の昔ならば、五十年以来動かぬとのみ思われる水底から、腐った蓮の根がそろそろ青い芽を吹きかけている。泥から生れた鯉と鮒が、闇を忍んで緩やかにを働かしている。イルミネーションは高い影を逆まにして、二丁余の岸を、尺も残さず真赤になってこの静かなる水の上に倒れ込む。黒い水は死につつもぱっと色を作す。泥に潜む魚の鰭は燃える。