先生は襦袢の袖から手を抜いて、素肌の懐に肘まで収めたまま、二三度肩をゆすって
「どうも、ぞくぞくする」と細長い髯を襟のなかに埋めた。
「御寝みなさい。起きていらっしゃると毒ですから。私はもう御暇をします」
「なに、まあ御話し。もう小夜が帰る時分だから。寝たければ私の方で御免蒙って寝る。それにまだ話も残っているから」
先生は急に胸の中から、手を出して膝の上へ乗せて、双方を一度に打った。
「まあ緩くりするが好い。今暮れたばかりだ」
迷惑のうちにも小野さんはさすが気の毒に思った。これほどまでに自分を引き留めたいのは、ただ当年の可懐味や、一夕の無聊ではない。よくよく行く先が案じられて、亡き後の安心を片時も早く、脈の打つ手に握りたいからであろう。
実は夕食もまだ食わない。いれば耳を傾けたくない話が出る。腰だけはとうから宙に浮いている。しかし先生の様子を見ると無理に洋袴の膝を伸す訳にもいかない。老人は病を力めて、わがために強いて元気をつけている。親しみやすき蒲団は片寄せられて、穴ばかりになった。温気は昔の事である。
「時に小夜の事だがね」と先生は洋灯の灯を見ながら云う。五分心を蒲鉾形に点る火屋のなかは、壺に充る油を、物言わず吸い上げて、穏かなの舌が、暮れたばかりの春を、動かず守る。人佗て淋しき宵を、ただ一点の明きに償う。燈灯は希望の影を招く。
「時に小夜の事だがね。知っての通りああ云う内気な性質ではあるし、今の女学生のようにハイカラな教育もないからとうてい気にもいるまいが、……」まで来て先生は洋灯から眼を放した。眼は小野さんの方に向う。何とか取り合わなければならない。
「いいえ――どうして――」と受けて、ちょっと句を切って見せたが、先生は依然として、こっちの顔から眸を動かさない。その上口を開かずに何だか待っている。
「気にいらんなんて――そんな事が――あるはずがないですが」とぽつぽつに答える。ようやくに納得した先生は先へ進む。
「あれも不憫だからね」