やがて椽の片隅で擦る燐寸の音と共に、咳はやんだ。明るいものは室のなかに動いて来る。小野さんは洋袴の膝を折って、五分心を新らしい台の上に載せる。
「ちょうどよく合うね。据りがいい。紫檀かい」
「模擬でしょう」
「模擬でも立派なものだ。代は?」
「何ようござんす」
「よくはない。いくらかね」
「両方で四円少しです」
「四円。なるほど東京は物が高いね。――少しばかりの恩給でやって行くには京都の方が遥かに好いようだ」
二三年前と違って、先生は些額の恩給とわずかな貯蓄から上がる利子とで生活して行かねばならぬ。小野さんの世話をした時とはだいぶ違う。事に依れば小野さんの方から幾分か貢いで貰いたいようにも見える。小野さんは畏まって控えている。
「なに小夜さえなければ、京都にいても差し支ないんだが、若い娘を持つとなかなか心配なもので……」と途中でちょっと休んで見せる。小野さんは畏まったまま応じなかった。
「私などはどこの果で死のうが同じ事だが、後に残った小夜がたった一人で可哀想だからこの年になって、わざわざ東京まで出掛けて来たのさ。――いかな故郷でももう出てから二十年にもなる。知合も交際もない。まるで他国と同様だ。それに来て見ると、砂が立つ、埃が立つ。雑沓はする、物価は貴し、けっして住み好いとは思わない。……」
「住み好い所ではありませんね」
「これでも昔は親類も二三軒はあったんだが、長い間音信不通にしていたものだから、今では居所も分らない。不断はさほどにも思わないが、こうやって、半日でも寝ると考えるね。何となく心細い」
「なるほど」
「まあ御前が傍にいてくれるのが何よりの依頼だ」
「御役にも立ちませんで……」
「いえ、いろいろ親切にしてくれてまことにありがたい。忙しいところを……」
「論文の方がないと、まだ閑なんですが」
「論文。博士論文だね」
「ええ、まあそうです」
「いつ出すのかね」
いつ出すのか分らなかった。早く出さなければならないと思う。こんな引っ掛りがなければ、もうよほど書けたろうにと思う。口では
「今一生懸命に書いてるところです」と云う。