「そりゃ馬鹿気ている。一人で六十円使うのはもったいない。家を持っても楽に暮せる」
小野さんはまた返事のしようがなかった。
東京は物価が高いと云いながら、東京と京都の区別を知らない。鳴海絞の兵児帯を締めて芋粥に寒さを凌いだ時代と、大学を卒業して相当の尊敬を衣帽の末に払わねばならぬ今の境遇とを比較する事を知らない。書物は学者に取って命から二代目である。按摩の杖と同じく、無くっては世渡りが出来ぬほどに大切な道具である。その書物は机の上へ湧いてでも出る事か、中には人の驚くような奮発をして集めている。先生はそんな費用が、どれくらいかかるかまるで一切空である。したがって、おいそれと簡単な返事が出来ない。
小野さんは何を思ったか、左手を畳へつかえると、右を伸して洋灯の心をぱっと出した。六畳の小地球が急に東の方へ廻転したように、一度は明るくなる。先生の世界観が瞬と共に変るように明るくなる。小野さんはまだ螺旋から手を放さない。
「もう好い。そのくらいで好い。あんまり出すと危ない」と先生が云う。
小野さんは手を放した。手を引くときに、自分でカフスの奥を腕まで覗いて見る。やがて背広の表隠袋から、真白な手巾を撮み出して丁寧に指頭の油を拭き取った。
「少し灯が曲っているから……」と小野さんは拭き取った指頭を鼻の先へ持って来てふんふんと二三度嗅いだ。
「あの婆さんが切るといつでも曲る」と先生は股の開いた灯を見ながら云う。
「時にあの婆さんはどうです、御間に合いますか」
「そう、まだ礼も云わなかったね。だんだん御手数を掛けて……」
「いいえ。実は年を取ってるから働らけるかと思ったんですが」
「まあ、あれで結構だ。だんだん慣れてくる様子だから」
「そうですか、そりゃ好い按排でした。実はどうかと思って心配していたんですが。その代り人間はたしかだそうです。浅井が受合って行ったんですから」
「そうかい。時に浅井と云えば、どうしたい。まだ帰らないかい」
「もう帰る時分ですが。ことに因ると今日くらいの汽車で帰って来るかも知れません」
「一昨かの手紙には、二三日中に帰るとあったよ」
「はあ、そうでしたか」と云ったぎり、小野さんは捩じ上げた五分心の頭を無心に眺めている。浅井の帰京と五分心の関係を見極めんと思索するごとくに眸子は一点に集った。