二人の話はここで小野さんの向側を通り越した。見送ると並ぶ軒下から頭の影だけが斜に出て、蕎麦屋の方へ動いて行く。しばらく首を捩じ向けて、立ち留っていた小野さんは、また歩き出した。
浅井のように気の毒気の少ないものなら、すぐ片づける事も出来る。宗近のような平気な男なら、苦もなくどうかするだろう。甲野なら超然として板挟みになっているかも知れぬ。しかし自分には出来ない。向へ行って一歩深く陥り、こっちへ来て一歩深く陥る。双方へ気兼をして、片足ずつ双方へ取られてしまう。つまりは人情に絡んで意思に乏しいからである。利害? 利害の念は人情の土台の上に、後から被せた景気の皮である。自分を動かす第一の力はと聞かれれば、すぐ人情だと答える。利害の念は第三にも第四にも、ことによったら全くなくっても、自分はやはり同様の結果に陥るだろうと思う。――小野さんはこう考えて歩いて行く。
いかに人情でも、こんなに優柔ではいけまい。手を拱いて、自然の為すがままにして置いたら、事件はどう発展するか分らない。想像すると怖しくなる。人情に屈託していればいるほど、怖しい発展を、眼のあたりに見るようになるかもしれぬ。是非ここで、どうかせねばならん。しかし、まだ二三日の余裕はある。二三日よく考えた上で決断しても遅くはない。二三日立って善い智慧が出なければ、その時こそ仕方がない。浅井を捕えて、孤堂先生への談判を頼んでしまう。実はさっきもその考で、浅井の帰りを勘定に入れて、二三日の猶予をと云った。こんな事は人情に拘泥しない浅井に限る。自分のような情に篤いものはとうてい断わり切れない。――小野さんはこう考えて歩いて行く。
月はまだ天のなかにいる。流れんとして流るる気色も見えぬ。地に落つる光は、冴ゆる暇なきを、重たき温気に封じ込められて、限りなき大夢を半空に曳く。乏しい星は雲を潜って向側へ抜けそうに見える。綿のなかに砲弾を打ち込んだのが辛うじて輝やくようだ。静かに重い宵である。小野さんはこのなかを考えながら歩いて行く。今夜は半鐘も鳴るまい。