親父も気の毒な事をした。もう少し生きれば生きられる年だのに。髭もまるで白くはない。血色もみずみずしている。死ぬ気は無論なかったろう。気の毒な事をした。どうせ死ぬなら、日本へ帰ってから死んでくれれば好いのに。言い置いて行きたい事も定めてあったろう。聞きたい事、話したい事もたくさんあった。惜しい事をした。好い年をして三遍も四遍も外国へやられて、しかも任地で急病に罹って頓死してしまった。……
活きている眼は、壁の上から甲野さんを見詰めている。甲野さんは椅子に倚り掛ったまま、壁の上を見詰めている。二人の眼は見るたびにぴたりと合う。じっとして動かずに、合わしたままの秒を重ねて分に至ると、向うの眸が何となく働らいて来た。睛を閑所に転ずる気紛の働ではない。打ち守る光が次第に強くなって、眼を抜けた魂がじりじりと一直線に甲野さんに逼って来る。甲野さんはおやと、首を動した。髪の毛が、椅子の背を離れて二寸ばかり前へ出た時、もう魂はいなくなった。いつの間にやら、眼のなかへ引き返したと見える。一枚の額は依然として一枚の額に過ぎない。甲野さんは再び黒い頭を椅子の肩に投げかけた。
馬鹿馬鹿しい。が近頃時々こんな事がある。身体が衰弱したせいか、頭脳の具合が悪いからだろう。それにしてもこの画は厭だ。なまじい親父に似ているだけがなお気掛りである。死んだものに心を残したって始まらないのは知れている。ところへ死んだものを鼻の先へぶら下げて思え思えと催促されるのは、木刀を突き付けて、さあ腹を切れと逼られるようなものだ。うるさいのみか不快になる。
それもただの場合ならともかくである。親父の事を思い出すたびに、親父に気の毒になる。今の身と、今の心は自分にさえ気の毒である。実世界に住むとは、名ばかりの衣と住と食とを貪るだけで、頭はほかの国に、母も妹も忘れればこそ、こう生きてもいる。実世界の地面から、踵を上げる事を解し得ぬ利害の人の眼に見たら、定めし馬鹿の骨頂だろう。自分は自分にすべてを棄てる覚悟があるにもせよ、この体たらくを親父には見せたくない。親父はただの人である。草葉の蔭で親父が見ていたら、定めて不肖の子と思うだろう。不肖の子は親父の事を思い出したくない。思い出せば気の毒になる。――どうもこの画はいかん。折があったら蔵のなかへでも片づけてしまおう。……
十人は十人の因果を持つ。羹に懲りて膾を吹くは、株を守って兎を待つと、等しく一様の大律に支配せらる。白日天に中して万戸に午砲の飯を炊ぐとき、蹠下の民は褥裏に夜半太平の計熟す。甲野さんがただ一人書斎で考えている間に、母と藤尾は日本間の方で小声に話している。