「身体が悪いと御云いだけれども、御前くらいの身体で御嫁を取った人はいくらでもあります」
「そりゃ、有るでしょう」
「だからさ。御前も、もう一遍考え直して御覧な。中には御嫁を貰って大変丈夫になった人もあるくらいだよ」
甲野さんの手はこの時始めて額を離れた。洋卓の上には一枚の罫紙に鉛筆が添えて載せてある。何気なく罫紙を取り上げて裏を返して見ると三四行の英語が書いてある。読み掛けて気がついた。昨日読んだ書物の中から備忘のため抄録して、そのままに捨てて置いた紙片である。甲野さんは罫紙を洋卓の上に伏せた。
母は額の裏側だけに八の字を寄せて、甲野さんの返事をおとなしく待っている。甲野さんは鉛筆を執って紙の上へ烏と云う字を書いた。
「どうだろうね」
烏と云う字が鳥になった。
「そうしてくれると好いがね」
鳥と云う字が鴃の字になった。その下に舌の字が付いた。そうして顔を上げた。云う。
「まあ藤尾の方からきめたら好いでしょう」
「御前が、どうしても承知してくれなければ、そうするよりほかに道はあるまい」
云い終った母は悄然として下を向いた。同時に忰の紙の上に三角が出来た。三角が三つ重なって鱗の紋になる。
「母かさん。家は藤尾にやりますよ」
「それじゃ御前……」と打ち消にかかる。
「財産も藤尾にやります。私は何にもいらない」
「それじゃ私達が困るばかりだあね」
「困りますか」と落ちついて云った。母子はちょっと眼を見合せる。
「困りますかって。――私が、死んだ阿父さんに済まないじゃないか」
「そうですか。じゃどうすれば好いんです」と飴色に塗った鉛筆を洋卓の上にはたりと放り出した。