「どうすれば好いか、どうせ母さんのような無学なものには分らないが、無学は無学なりにそれじゃ済まないと思いますよ」
「厭なんですか」
「厭だなんて、そんなもったいない事を今まで云った事があったかね」
「有りません」
「私も無いつもりだ。御前がそう云ってくれるたんびに、御礼は始終云ってるじゃないか」
「御礼は始終聞いています」
母は転がった鉛筆を取り上げて、尖った先を見た。丸い護謨の尻を見た。心のうちで手のつけようのない人だと思った。ややあって護謨の尻をきゅうっと洋卓の上へ引っ張りながら云う。
「じゃ、どうあっても家を襲ぐ気はないんだね」
「家は襲いでいます。法律上私は相続人です」
「甲野の家は襲いでも、母かさんの世話はしてくれないんだね」
甲野さんは返事をする前に、眸を長い眼の真中に据えてつくづくと母の顔を眺めた。やがて、
「だから、家も財産もみんな藤尾にやると云うんです」と慇懃に云う。
「それほどに御云いなら、仕方がない」
母は溜息と共に、この一句を洋卓の上にうちやった。甲野さんは超然としている。
「じゃ仕方がないから、御前の事は御前の思い通りにするとして、――藤尾の方だがね」
「ええ」
「実はあの小野さんが好かろうと思うんだが、どうだろう」
「小野をですか」と云ったぎり、黙った。
「いけまいか」
「いけない事もないでしょう」と緩くり云う。
「よければ、そうきめようと思うが……」
「好いでしょう」
「好いかい」
「ええ」
「それでようやく安心した」
甲野さんはじっと眼を凝らして正面に何物をか見詰めている。あたかも前にある母の存在を認めざるごとくである。
「それでようやく――御前どうかおしかい」